第41話 鬼怒川温泉旅行⑧ 余韻

「何だったんだ、あれ……」


 気がつくと僕はいつの間にか着替え終わってロビーのソファーに深々と沈み込み、湯上がりの火照ほてった肌が少しずつ冷えてゆくのを感じていた。


 ――雪奈にキスされた。


「はぁっ……」


 口づけの余韻よいんが残る右頬は、まだ何となく熱い気がする。そんなわけないのに。血の繋がった妹にキスされるという未知の事態に、僕の頭はほとんど思考を停止していた。


「キスされたってことは……そういうこと、だよな……」


 キスをする前、僕のことが嫌いじゃないのかとたずねた僕に、彼女は確かにこう言った。『違うの……別に嫌いとかじゃなくて』と。あそこで嘘をつく理由は何もないだろう。そもそも僕のことが嫌いなら、わざわざ深夜の露天風呂に入ってくるはずがない。となると、むしろやっぱり僕のことが――?


「なら、普段の雪奈はツンデレなのか……?」


 今までは反抗期か、それとも高校受験のストレスなのかと思っていたが、そう考えるとそれはそれで納得がいく……かもしれない。ただの照れ隠しなら可愛いものだ。実の兄妹の間での恋愛感情が認められるかどうかはともかく。


「もっと嫌悪感があるかと思ったけど――」


 ――意外とないな、というのが正直な感想だった。というか、少し前には澪奈とも一緒に入浴したし、僕の方こそどうかしてしまっているのかもしれない。

 これから僕は雪奈にどう接すれば良いのだろう。『ごめん。やっぱり雪奈とは付き合えないよ』と言うべきか……いやいや、そもそも告白されたわけではないのだ。キスだって唇ではなく頬にされたのであって、ただの親愛の情を表すキスかもしれないじゃないか。


「取り敢えず、普通にするしかないか」


 息を吐いて立ち上がり、僕は部屋に戻った。

 雪奈も布団に入って、寝息をすやすやと立てている。


「……おやすみ、雪奈」


 そう呟いて、僕は目をつむった。

 明日のことは、きっと明日の自分が何とかしてくれるだろうと思いながら。




「んんっ……」


 壁の向こうから聞こえてくる鳥の声に、意識が次第に目覚めてくる。

 この部屋は一番安くて狭い部屋なので眺望すらないが、朝になったことくらいは一応分かるのだ。そろそろ起きるかと身を起こそうとして――。


「あれ……?」


 右腕がやたら重い。

 眠い目を擦りながら開けると、浴衣をはだけさせた澪奈が僕の右腕をかかえていた。浴衣の下に何も着ていなかったらしく、白く華奢きゃしゃな肩や鎖骨が丸見えだ。


「ちょっ、おい澪奈、起きて」

「ん……あと十分……」

「まったくもう…………あ」


 ふと反対側を振り向くと、こっちを見ていた雪奈とバッチリ目が合った。

 お互いに一言も発さないまま時間が過ぎてゆく。き、気まずい。


「お、おはよう雪奈」

「う、うん」

「昨日は、その……よく寝れた?」

「それはもう、よーく寝れ……ふあぁ」

「はは、そうでもないみたいだけど」

「いっ、いやー、今のはたまたま、たまたまだからっ」


 大きなあくびが出てしまい慌てている、まだ眠そうな雪奈。

 

 ……でも、こういう距離感こそが、きっと「仲の良い兄妹」なのだろう。まだ僕も全然分かっていないけれど、それはこれから慣れていけば良いはずだ。


「あらあら、二人とも朝から仲がよろしいようで」


 いつの間にか起きてこちらを見下ろしていた結衣花さんに、そんな僕たちの姿をいきなりスマホで写真に撮られてしまった。


「うわっ、ちょっとその写真消して!?」

「やーだねっ」



 ***



 ……なーにが「これから慣れていけば良い」だ!


 ホテルのすぐ近くでやっていた「鬼怒川ライン下り」という川下りの舟に四人で乗った僕はさっそく後悔していた。


「さぁ、ここから揺れますよ!」

「きゃぁああっ!」

「冷たーい!」


 十数人をぎっしり乗せた小舟を巧みに操る船頭せんどうさんがそう言った途端、急流のしぶきが黄色い救命胴衣に降りかかってくる。ボートの前の方に座っている観光客が楽しそうに叫んでいる一方、最後尾に並んで座っている僕と雪奈は気まずくてそれどころではなかった。


(しっかり掴まらないと危ないけど……でも……)


「ほら兄ちゃん、何やってるの。の手をしっかり握らないとおぼれちゃうでしょ」


 僕たちのすぐ後ろの船尾に座っている青いハッピを着たおじさんに言われて、僕は慌てて雪奈の手を握った。傍では「彼女」と勘違いされた妹がアワアワしているが、今はやむを得ない。このぶんでは、雪奈との適切な距離感を見つけるのはまだまだ先になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る