第35話 鬼怒川温泉旅行② 足湯

「結衣花さん、澪奈、起きて」

「んっ……あれ……」

「はぁっ……もう……?」

「おはよう、二人とも」


 結局ずっと僕の肩に頭を乗せて眠っていた二人に、そっと声をかけた。ずっと寝せてあげたいところだが、残念ながらそうもいかない。


「お、おはよう……私、寝ちゃってた?」

「うん。それはもう、ぐっすりと」

「あはは……こんな姿勢で、かぁ……」


 茶色い前髪の奥に覗く結衣花さんの長い睫毛まつげに思わずドキリとしている場合ではないのだ。電車はもうすぐ新宿駅に着くのだから。


「ほら、起きなさいアンタ」

「えー、もうちょっとぉ……」


 姉に叩かれながらもまだむにゃむにゃ言っている次女に、起きたばかりの彼女はふにゃりと笑った。すっかり満員になった特急列車が終点に向けて減速してゆく。


「まだ七時半にもなってないからね。私が言うのもなんだけど、許してあげて」



 ***



 あっという間に新宿に着いて、僕たちは意気揚々と新宿駅に降り立った――が、悠長ゆうちょうに歩いている暇は全くない。次に乗る「日光1号」は全席指定席だから、事前にネットで予約しておいた切符を駅の指定席券売機で受け取らなければならないのだ。


「走るぞ!」

「またぁっ!?」

「今が一番大変だからっ!」

「だからって……っ」


 東京の中心部だけあってゴミのように多い人をき分けながら、僕たちはエスカレーターを駆け上がった。怒られそうだがやむを得ない。ごめんなさいと心の中で謝りながら、5番線ホームにあるらしい券売機を目指す。


「あれっ、JRだったっけ!」

「東武鉄道と共同で運行してるらしいよっ」

「雪奈、結構調べてくれてたんだなっ」

「ち、違うしっ」


 結局、切符を買ったのはかなりギリギリだった。またまた駆け込み乗車になってしまったが、無事に乗ることができて何よりだ。車内に入って見渡してみると、流石は連休だけあって座席はほぼ満席である。


「おぉ、広いね」

「新幹線みたいな座席」

「昔の成田エクスプレスの車両を改造したんだって」

「……雪奈ちゃん、鉄道好きなの?」

「ち、違いますっ」


 雪奈の鉄オタ疑惑はさておき、この赤い電車の乗り心地はかなり良さそうだ。ゆったりした二人がけの座席を回転させ、僕たちはボックスシートを作る。窓際に僕と結衣花さんが向かい合って座り、僕の横に澪奈が、結衣花さんの隣に雪奈が、それぞれ腰を下ろすことになった。

 席決めをしてようやく一息ついたちょうどその時、澪奈のお腹からグーッと音が響いた。顔を赤らめている彼女に、僕はリュックサックからおにぎりを取り出した。


「はい、これ。……ちょっと形が崩れてるけど」

「……って言うか、ぺしゃんこ」

「すいません……」


 必死に激走している間に中で他の荷物と潰れ合ったらしく、せっかくの三角形が色々な方向にひしゃげてしまっている。ウエストポーチに入れておけばこんなことにはならなかったんだろうけれど、四つ全部は入りきらなかったので二人に不公平かと思ってやめたのだ。


「まあ、良いじゃない。これも旅行よ」

「雪奈……」

「か、勘違いしないでよねっ? アンタに預けておいたらこうなるだろうってことくらい想定済みだっただけだからっ」

「はいはい、どうせ僕はダメ兄貴ですよ」


 ふんっと顔をそむけながら、潰れたツナマヨおにぎりを開封する雪奈。ピアノを習っているからなのか、海苔のりを引き出して器用に形を整えている。

 最後にこうして家族で旅をしたのはいつだっただろう――そう思いながら窓の外をぼうっと眺めていると、窓ガラスに映った結衣花さんと目が合った。


「楽しみだね、鬼怒川温泉」

「そうだね」


 列車は次第に速度を上げ、少しずつ都心を抜けてゆく。



 ***



「着いたーっ!」


 結衣花さんがグーッと両手を上に伸ばした。時刻は十時と少し前。予定通りに鬼怒川温泉駅に到着することができたのだ。


「うぐぅ……」

「あぁ……」


 ウキウキしている僕たち高校生組に対して、中学生組二人の元気がない。


「どうしたんだよ二人とも」

「だって、人が多くて……」

「全く、姉妹そろってさぁ……」


 国内でも有名な温泉地は、家族連れやカップルでにぎわっている。厨二病キャラの澪奈だけでなく、一見すると陽キャっぽい雪奈も実は文芸部所属の陰キャなのだ――こういう言い方をすると文芸部の人に怒られてしまうだろうけれど――。要するに、二人とも東京人のくせに、人混みに対してあまり耐性がないのである。


「そうだ、せっかくだから足湯にでも入ってく?」

「でも、計画では吊り橋の方に行くんじゃ……」

「まあまあ、チェックインは午後五時の予定だし。ゆっくりしようよ」


 お目当ての足湯は駅前のすぐ近くにあった。激混みかと思っていたのだが、入っている人は意外に少ない。僕たちは靴下を脱いで足を拭き、ここぞとばかりに足湯に浸かった。ちなみに料金は無料だ。


「ふあぁ……気持ちいい……」

「湯温もちょうどいいね……」


 早朝から重たい荷物を背負いながら走って疲れた身体が、足の奥からぽかぽかと温まってゆく。


「温泉ってすごい……」

「我、浄化されて昇天しそう……」


 六角形の屋根越しに見上げる空は真っ青で、山々に囲まれた空気は都心よりもずっと綺麗だった。

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