第30話 三樹vs沙月

『もしもし、夕島さんのお宅でよろしいでしょうか? 私はあなたの娘さんの同級生、笹木孝樹の父親の三樹かずきと申します』


 電気もつけられていない深夜のタワーマンションの一室。

 乱れたスーツ姿でソファに深く沈んでいた女性は、久しぶりに鳴った固定電話によろよろと起き上がり、受話器を静かに取った。


「……そうですか。私は結衣花の母、夕島沙月さつきです。笹木さんのお宅では娘がいつもお世話になっているそうで」

『いえ、こちらこそですよ。まったく素晴らしい娘さんです。成績優秀で礼儀正しく、家事もできるなんて』

「とんでもない。あの子は全然ですよ」


 メイクは崩れ、一日中書類を睨んで疲れ果てた目元にはくまができているものの、その女性は長い茶髪が印象的な美しさをかもし出している。


『何をおっしゃいますか。これは息子から聞いた話ですが、自分の夢を諦めない芯の強さは特に素晴らしい』

「……」

『結衣花さん、歌手になりたいんだそうですね』

「まったく、ウチの娘には困ったものです。実現不可能な夢をいつまでも見ているのですから」

『歌手になるという目標の無謀さは、聡明な娘さん自身が一番よく分かっておられるでしょう。でも――』

「夢に縛られる人生は不幸以外の何物でもありませんよ。私がそうでした。娘には才能がない。達成できない夢を応援するなんて無責任なこと、私には」

『だからやめさせる、とことん否定すると?』

「無駄な足掻きをするくらいなら、その時間を使って勉強した方がよほど娘のためになります。私は憎まれたって構いませんから」

『最短ルートを歩めば良いというものではないことは、お母様もご存知でしょう?』

「ですが――!」

『やってみて、ぶつかってみなければ分からないことはたくさんあると思いますよ』

「……もう結構です。結衣花は私の娘ですから。娘の教育方針は私が決めます」

『その通りだ。娘さんを愛されているんですね』

「当たり前でしょう! 私は結衣花の母親なのですから」

『つまり愛のむち、というわけですか』


 三樹の放った一言に、少しの間沈黙が流れた。


「…………おっしゃる意味がよく分かりかねます」

『ああ、これも愚息が言っていたことなのですが。お宅の娘さん、傷の手当ての手際がとても良いそうで』

「……結衣花は器用な子です」

『はぁっ……私に言わせないでくださいませんか。こちらには証拠写真だってあるんですよ。確かに、私たちに夕島家の、あなたの教育方針を変えさせる権利はない。ですが、それが家庭内暴力であれば話は別です』

「……」

『今のところ、あなた方母娘おやこのことを児童相談所や家庭裁判所でどうこうしようというつもりはありませんよ。しかし、娘さんが私の息子の友人である以上、私も黙ってみているわけにはいきません』

「……そうですか」

『そういうわけで、私からお母様に了承していただきたいことが二つあります。まず、しばらくの間、娘さんをこちらで預からせていただきたいと思います。もちろん結衣花さんの同意は確認済みです』

「……お父様はおられないのでしょう? 娘に何かあったら――」

『あなたがそれをおっしゃるのですか?』

「……っ」

『結衣花さんが悲しむようなことは絶対にさせないとお約束しましょう。妹二人もいますし、それに何より孝樹は虫の一匹も殺せないようなヤツです』

「……ずいぶんと息子さんを信頼していらっしゃるのですね」

『家族ですから』

「かぞ、く……」


 消えるような声で、沙月は小さく呟いた。


『もう一つ。連休明け、愚息の立ち会いのもとで娘さんと会ってくださいませんか』

「……私が?」

『ええ。お母様が、です。あなた方はいったん距離を置いてみるべきだと私は思います。お母様も冷静になられた上で、結衣花さんと対等に話し合う場を設けたいのです』

「私は別に、今も冷静で――」

『それはないですね』


 三樹は思いのほか、バッサリと切り捨てた。


『あなたのご職業についても、息子を通してうかがっています。疲れてストレスが溜まっている時には、いくら優秀な人でも思っているのとは違う言動をしてしまうこともあるでしょう』

「お父様……」

『忙しくされていることとは思いますが、沙月さんも少し休まれてはいかがですか?』

「そう……ですね。有休も全然取っていませんから……」

『ええ。では先ほどの二点、ご了承いただけますか?』


 沙月は目を閉じて、静かに息を吐いた。


「……分かりました。娘を、どうかよろしくお願いします」

『ええ。ではまた後日ご連絡いたします』

「はい。失礼します」


 名実ともに娘を失った母親は、ふらふらとソファに戻ると、ガックリと崩れ落ちた。



 ***



「はぁ……よく寝た……」


 窓から差し込んでくる朝日に目を開ける。枕元に置いてあったスマホを見ると、時刻はもう九時近くなっていた。連休初日とはいえ流石に寝過ぎだ。そう思ってふと横を向き、僕は完全に固まった。


「ゆ、結衣花さん……っ」


 前髪の間からのぞく長い睫毛まつげ。薄く色づいた滑らかな頬に整った鼻筋、すっぴんなのに色っぽい口元。

 薄いグレーのパジャマは寝ている間に少し乱れてしまったのか、胸元のボタンが二つほど外れて、豊かな白い谷間がチラリと見えてしまっている。


「なぁっ……!?」

「……んっ……」


 こちらに身体を向けて眠っていた美少女の目が、僕の声につられてゆっくりと開いてゆく。


「……あ。おはよ……孝樹君」

「おっ、おはよう、結衣花さん」


 こうして、僕たち四人で初めて迎えた連休が幕を開けたのだった。

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