第24話 ここから出よう(後編)

「だ、大丈夫?」

「うん。今はもうほとんど痛くないよ」


 確かにある程度ふさがってえてはいるみたいだけど、それでもその赤みがかった傷はひどく痛々しかった。不良でもなんでもない女子高生の白い背中にあっていいものではない。


「お母さんと……殴り合い……」


 信じられないといった口調で呟く雪奈。


「あはは、そりゃあドン引きだよね……」

「いや、別にドン引きというか、その……」

「ううん、良いんだよ。私もそのくらいするんだって知って欲しかったから」


 その言葉にハッとさせられた。女性だとか高校生だとか、そんなことは、彼女にとってはどうでも良いことなのだ。殴り合ってでも叶えたい夢があるのだから。


「その夢って──」

「もしかして、ピアニスト……?」


 彼女はブラジャーを付け直し、皺々しわしわの白いTシャツを拾い上げて上から被る。そうして長い黒髪をき上げ、恐る恐る問いかけた僕と雪奈に振り返った。


「惜しいね、雪奈ちゃん。私は歌手になりたいの」

「歌手、ですか」

「ふむ……」

「うん。小さい頃からの憧れなんだ」


 そう口にした結衣花さんの瞳は、宝石のようにキラキラ輝いていて。


「応援するよ」


 それを見た僕の口は、気づけば勝手に動いていた。


「孝樹君……」

「結衣花さんが歌上手いのかは知らないし、僕が聞いても多分分からない。でも、『歌手になりたい』ってはっきり言えること自体が凄いことだと思う。無責任と言われればその通りだし、反対するお母さんの気持ちも分かる」

「うん……」

「だけど、やってみることが重要じゃないかと思うんだ。夢を追いかけられるのって素敵だし、一回限りの人生なんだから、ここで諦めちゃったら損だよ」


 僕には彼女のことが羨ましいのだと思う。追いかける夢も特に見つからない僕にとって、歌手になりたいと他人に言い切れる彼女はとてもまぶしかったから。


 ──だから、諦めてほしくない。


「……わたしも応援する」


 横から口を開いたのは澪奈だった。先ほどまでの中二モードから真面目モードに切り替わっている。


「わたし、実はイラスト投稿サイトで絵を描いてるんだけど……」

「そうなの!? すごいんだね……!」

「今でこそたくさんの人がわたしの絵を見てくれるようになって、ブックマークやいいねをしてくれる。でも最初の頃は全然だった」


 僕は彼女の努力を知っている。

 たった数年前の澪奈は棒人間しか描けなくて、はっきり言ってこの僕よりも下手くそだった。だから正直、まさか彼女がこんなにも上手くなるとは思っていなかったし、雪奈なんて最初から諦めるように何度も言っていた。

 

「そんな時、お父さんが応援してくれたの。好きなことなら全力でやれ。他人の評価なんて気にするな、って」

「お父さん、か……」


 うつむいた結衣花さんに、僕は心の中で懸念していた予想が当たっていたことを察した。どうして彼女の話の中に父親が全く登場しないのだろうか。母娘の殴り合いを仲裁しない父親が果たしているのだろうか。

 導き出される答えは一つしかない。


「いいお父さんだよね。……羨ましいなぁ、お父さんがいるって」

「あ……そのっ……」


 澪奈も気づいたようで、自分の言葉を聞いた結衣花さんが何を思うのか分かったのだろう。あたふたする妹に、彼女は首を横にそっと振った。


「ううん、大丈夫だよ。私にはどうにもならない現実だから。──お父さんは私がまだ保育園に通ってた頃、家を出ていったの。お母さんとはお父さんの話をしたこと自体ほとんどないけど、浮気してたのがバレて離婚したみたい。でも、私の養育費を援助してくれてるって」

「そうなんだ……」

「だから、クズだけど本当の意味で悪い人ではないんだと思う。お父さんがいてくれたらって思ったことはたくさんある」


 一人親の辛いところは、親と喧嘩でもしようものなら仲立ちしてくれる人がいなくなってしまうところだ。我が家は子どもが三人いるから良いようなものの、一人っ子だろう結衣花さんがお母さんと仲違いをしてしまえば。


「それで、澪奈ちゃんたちとお父さんのこと、羨ましいなって思っちゃったの。ごめんね」

「そんな! 結衣花さんが謝るようなことじゃ」

「だって、孝樹君たちもお母さんがいればいいなって思ったことあるでしょ?」


 そう言われて、うーんと首をひねる。

 確かにあるかもしれないけれど、母親という存在を痛烈に欲しいと思ったことは父さんの離婚以来ない。父さんも楽しそうにしていたから、再婚して欲しいと思ったことさえなかった。


「……ごめん。僕たち、きっとかなり恵まれてるんだ。頑張れとか軽率だった。ほんと、ごめん」

「そんなことないよ。私が殴り合いとかじゃなくて、正面から言葉で向き合えていれば良かっただけなの……。私は一人じゃ生きていけない。あんなお母さんでも、やっぱり私の母親だから」


 噛みしめるように言う彼女の姿に、僕は拳を握り締めることしかできなかった。それで良いのだろうか。部外者である僕たちは、何もすべきじゃないんだろうか──。


「……違いますっ!!」 


 泣き叫んだのは雪奈だった。


「娘を殴る母親なんて……そんな母親がっ!! 母親なわけないじゃないですか……っ!!」


 彼女の言葉に、心を覆っていたモヤモヤが晴れてゆくような気がした。このままでは結衣花さんが一人で苦しみ続けるだけだ。他所よその家のことだからと遠慮している場合ではない。


「雪奈の言う通りだと思う。僕たちは反抗期なんだから、もっと大手を振って反抗すれば良いんだよ」

「でも……」

「結衣花さんはお母さんと一度距離を置くべきじゃないかな。離れてみて初めて分かることって、きっとたくさんある」


 きっとこれがDVというものなのだろう。逆らいたくても逆らえない相手から暴力を受け続け、いつの間にか泥沼の深みにまってゆく──そんな家庭で育ってきた結衣花さんを、他人だからと見過ごすことは最早できなかった。


「このままで良いの? 結衣花さん。……僕は嫌だ。僕だったら、自分に暴力なんか振るったことを後悔させてやりたいって思う。雪奈と澪奈はどう?」

「当たり前じゃないっ! 先輩を泣かせた母親をとっちめてやらないと気が済まないんだから!」

「我が右腕の聖痕にかけて誓おう。我が眷属を傷つけた者は、混沌の暗闇に呑まれながら久遠くおんの後悔にさいなまれるがいい……ッ!」


 乗り気な妹たちに僕はフッと笑って、結衣花さんの方へ向き直った。


「そういうわけだから。結衣花さんは我が家のメイドで、そして僕たちにとってはもう家族みたいに大切な人なんだ。──ここから出よう、結衣花さん。家族の温もりってものが分かるようになるまで、僕たちの家にいて欲しい」

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