第18話 彼女のいない日

 帰り道を一人で歩くのはずいぶん久しぶりな気がした。結衣花さんと一緒に帰るようになったのは、わずか一週間ほど前からのことなのにだ。


「当たり前なんかじゃないのにな……」


 自惚うぬぼれないようにと自分に言い聞かせていたつもりだったのだが、それでも僕は浮かれていたらしい。彼女とたった一日一緒に帰れないというだけで、こんなにも帰り道が長く感じるのだから。


「ただいまー」


 がらんとした玄関に木霊こだまする控えめな呟き。やっぱり少しむなしかった。高校受験の勉強で忙しい雪奈が下りてきてくれるはずもないし、澪奈は自室に引きこもって絵を描いているのかもしれない。

 だから、家事をするのは僕の役目。そうだ。つい最近までと何も変わらないじゃないか。


「……よし」


 結衣花さんが一日くらい居なくたって、別にどうということはない。

 朝ご飯の後、結頃花さんが水に漬けておいてくれた皿を洗っていると、誰かが階段を降りてくる音がした。


「あ、ゆ、雪奈……」

「…………お、おかえり」


 僕とは相変わらず目を合わせようとはしないながらも、雪奈は確かな足取りでズンズンと台所に入ってくる。


「……雪奈?」

「……はい」


 シンクに立っている僕の左隣に並んだ彼女は、ズイッと右手を差し出してきた。


「えっ?」

「……て、手伝うって言ってんの!」

「お、おぅ」


 さっき洗い終わったばかりの皿を反射的に差し出すと、雪奈はシンクの脇に置いてあるタオルでそれを拭き始めた。


「ありがとな、雪奈。すごく助かる」

「……別に。ただの気分だから」

「二人でやると作業効率が上がって楽なんだ」

「そう」


 僕が洗剤で洗い流水で流した皿を雪奈に手渡し、雪奈はそれを拭いて食洗機に入れてゆく。決して手際が良いとは言えないし、何なら結衣花さん一人の方が早いかもしれない。でも、僕と雪奈の息はぴったりだった。会話なんてちっとも弾まない無言のまま、重なっていた皿の数だけがどんどん減ってゆく。


「おお……もう終わった」


 思わず感嘆していると、制服の裾がクイッと引っ張られる。

 目を伏せたまま、雪奈は独り言のように呟いた。


「あたし……ちょっとは役に立てた……?」


 何だ、そんなことか。

 僕は彼女のサラサラのロングヘアをそっと撫でた。


「立った。すっごく立った。ありがとう、雪奈」

「……よかった」



 ***



 後ろ姿にも分かるほど嬉しそうな長女の背中を微笑ましく見送って、僕はリビングを出た。次は洗濯だ。ついでに自分の服も取り替えたい。

 何の気もなしに洗面所に入ると、そこには先客がいた。

 

「……あ」


 中二病次女、澪奈だ。――しかも下着姿の。


「ご、ごめん澪奈!」


 慌てて顔を背け、洗面所を出ようとした僕。しかしそんな兄に対して、澪奈は意外な一言を口にした。


「何言ってるの、お兄ちゃん」

「……えっ?」

「別に謝らなくていいのに」

「で、でも」

「わたしとお姉ちゃんの下着をいつも洗ってるんだから、今さらでしょ」

「それは、まぁそうだけど……」


 確かにそうだ。

 結衣花さんの下着ならともかく――何がどうともかくなのかはさておき――妹たちの下着など、兄である僕にとってはただの布切れに過ぎない。だって血の繋がった妹だし、デザインも過激なものではない。

 この前結衣花さんに揶揄からかわれたように、僕は少しシスコンの気があるかもしれない。とはいえ、妹の布切れで興奮するような変態ではないのだ。僕と彼女たちはまごうことなき家族だし、この家で生まれてからずっと一緒に暮らしてきたのだから。


「お兄ちゃん、これから洗濯するところだった?」

「そうだけど……」

「じゃあ、脱いで」


 まだ子どもっぽい下着をつけている澪奈は、平然とした顔で僕を指さした。


「えっ?」

「もうわたしたちの服は洗濯機の中に入れてあるから。後はお兄ちゃんの制服だけ」

「それはありがとな――ってそうじゃなくて!」

「何を恥ずかしがってるの? わたしたち、兄妹でしょ」

「それはそうだけど……」

「これからわたしはお風呂に入るから。お兄ちゃんも一緒に入って」

「ちょっ、澪奈!?」

「洗濯機を二回回すの面倒だし、水はもったいないし。ついでに環境にも悪い」

「いやそれはその通りだけど……でも、澪奈だってもう中学生だし……」


 なぜかいつもの中二病モードではない妹に、どうしても調子が狂ってしまう。

 何とかなだめようとあたふたしている僕に構うことなく、澪奈はポニーテールをするりとほどき、そして下着を堂々と脱ぎ去った。


「中学生だから何? ほら……早く」


 そう言って、彼女はバスタオルも巻かずに浴室へと入っていってしまった。水を身体に掛ける音が聞こえてくる。薄いりガラス一枚を隔てて後に残されたのは、今まで見たこともない澪奈の行動に呆然としている僕だけだ。


「こ、これは……入るしかない……のか」


 思い返してみれば、雪奈が小学六年生になるまで僕と妹たちは一緒に入浴していた。その時だって結構気恥ずかしかったし、今思えば世間的にはアウトだったのかもしれないけれど――。


「まぁ、澪奈が良いって言ってるんだし、たまにはいいか……」


 妹にそこまで信頼されていること自体には悪い気分などするはずもないし、それに澪奈は全然気にしていなさそうだ。僕は制服を脱いで洗濯機の中に入れ、タオルを腰に巻いて風呂場へ足を踏み入れた。

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