第17話 結衣花の夢

「と、泊まりたい……!?」


 夕食を取りながら、結衣花さんはおずおずとそう切り出した。


「うん……もう結構遅くなっちゃったから、その……床でも良いので、今日のところは泊めさせてもらえませんか?」

「いいよ。雪奈、澪奈も構わないよね?」


 幸い、妹たちも快く頷いてくれた。もとより断る筋合いもない。


「分かった。もちろんちゃんとベッドに寝てもらうよ。部屋は――」


 そうは言ったものの、今開いているのはジャカルタ出張中の父の部屋だけだ。まさか女の子をそこに泊めるわけにはいかない。僕の部屋も論外である。いずれは一緒に……いや何でもない。そんなことを言ったら雪奈に撲殺されそうだ。


「ほう、では我が部屋に泊めてやろう。眷属けんぞくの寝床を用意するのもあるじの務めゆえ」

「ダメだ」

「話にならないわ」

「何でぇっ!?」


 僕と雪奈から一斉に言われて涙目になる次女。


「だってお前……この前片付けたばかりなのにまた散らかしてるだろ」

「うぐっ……それは」

「本棚が倒れてきたらしいじゃない。そんな危険な部屋に夕島先輩を寝かせるわけにはいかないわ」

「となると……」


 雪奈はフッと息を吐いて肩をすくめた。


「良いですよ。あたしの部屋で良ければ一緒に寝ましょう、先輩」



 ***



「ピアノを弾いてみたい……ですか?」

「うん。雪奈ちゃん、確か今も習ってるんだよね? 良かったらちょっとだけ教えてくれないかな……?」

「ええ、構いませんけど。でもどうして急に?」

「ううん、昔から弾いてみたかったんだ」


 雪奈ちゃんが勉強を終えて一息ついた時を見計らって、私は恐る恐るお願いしてみた。もちろん今日ここに泊まらせてもらった理由は時間的なものだけれど、初めて彼女の部屋を見てからこのアップライトピアノがずっと気になっていた私としては、こうして念願が叶って嬉しい限りだ。


「じゃあまずは座ってみましょうか。結構浅く座るんですよ。背筋は……そう、真っ直ぐ伸ばして。あ、肩も腕も力抜いてください」


 ぶらんぶらんと揺すられて初めて、知らず知らずのうちに力が入ってしまっていたことに気づく。


「うわー、先輩って足長いんですね……もうちょっと椅子の高さ上げるので、一回立ってください」

「うん。私の方がちょっと身長高いだけだよ」

「いやいやフォローしないでくださいよ……はい、どうぞ。今度は座りやすくなりました?」

「あ、すごいすごい! さっきより腕が自然な感じ!」


 ふふ、と雪奈ちゃんは得意そうに緩く笑った。こういう顔もできるんだ。この可愛い笑顔を孝樹君にも見せてあげればいいのに。……できないんだろうなぁ、と私は心の中で呟いた。自分自身に向かって。


「じゃあ右手を白鍵の上に置いてみましょうか。親指をドの位置に、人差し指をレの位置に――そう、小指をソの上に」

「あ、手をちょっと丸めてください」

「猫の手を緩めたようなイメージです」

「指の第一関節をちょっと立ててください」


 矢継ぎ早に指示が飛んでくる。


「指を置くだけでこんなに大変なんだ……」

「いえ、先輩は筋がいいと思いますよ。あたしと同じくらいの頃から――――あ、ごめんなさい」

「ううん、大丈夫だよ。ちょっと羨ましいけどね」


 ドレミファソ、と潰れたような音が深夜の部屋に響く。それは音楽的に言えばきっと濁った音で、だけど私にとってはとてもとても澄んだ音だった。私、遂にやって来たんだ。幼い頃からずっとずっと憧れ続けてきた世界に――!


「…………先輩?」


 心配そうな雪奈ちゃんの声に、ハッとして頬をぬぐう。


「……あ、あれ? 私、なんで泣いて……?」


 声は普通に出るのに、熱いしずくが溢れて出して止まらない。そっか、私、こんなに……っ。

 かたわらに立っていた雪奈ちゃんが、私の頭をそっと抱き寄せてくれた。彼女の柔らかな胸の中に顔をうずめてようやく、自分さえ知らなかった奥底から嗚咽がき上がり漏れ出してくる。彼女はそのまま私の右手の上に手を置いて、私を導きながら静かに弾き始めた。


 ――ドードーソーソーラーラーソー。ファーファーミーミーレーレードー。


 鍵盤ハーモニカに夢中になっていた小学生の頃の自分の、あの希望に満ち溢れたときめきがよみがえってくる。夜空に浮かぶ星々の輝きが、諦めかけていた私の夢を明るく照らしてくれますように――そう思いながら、私も雪奈ちゃんの奏でるメロディーに合わせて口ずさんだ。


「みーんーなーのーゆーめーが。とーどーくーとーいーいーなー。きーらーきーらーひーかーる。おーそーらーのーほーしーよー……」



 ***



「そっか、怒られちゃったかぁ……」

「うん。ごめんね、一応バイトしてるっては言ってあったんだけど……明日は休みなさいって言われちゃった」


 朝の通学路を一緒に歩きながら、結衣花さんはそう言って何度も頭を下げてきた。


「大丈夫だよ。一日二日くらい、僕が何とかするから」

「ふふ、応援してる。――そういえばさ」

「どうかした?」

「孝樹君って、将来の夢とかある?」


 出し抜けに聞かれて、僕は首をひねった。


「うーん……昔はパイロットとか言ってたけど、ほとんどノリだったし……そう言う結衣花さんは、何か夢があるの?」


 そう聞き返すと、彼女はどこか儚げな笑みを浮かべて青空を見上げた。


「……あるよ、ずっと。それを昨日、雪奈ちゃんに教えてもらったんだ」

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