第16話 雪奈先生の脳破壊

「喉渇いた……」


 二階からリビングにやって来たあたしは、壁の向こうから聞こえてきた楽しそうな声にピクリと足を止めた。


『ど、どうかなっ……?』

『す、すごく似合ってて綺麗だよ』

『よかったぁ……私がコスプレなんて似合わないかなって心配してたんだけど』


 聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような感覚。自分の家だというのに何だかひどくイケないことをしている気分だった。

 ……それでも、気になるものは気になる。何しろあの完璧美少女である「夕島さん」――今や我が家のお手伝いさんメイドとなった夕島結衣花先輩が、お兄ちゃんに恥じらいを見せているらしいのだ。


(何してるんだろ、あの二人……)


 ドキドキしながら静かにリビングを覗き込んだあたしの前に広がっていたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。


『ちょ、ちょっと何ニヤけてるの……? 確かにこの衣装、ちょっと大胆な気もしたけど……』


 夕島先輩がメイド服を着ている。

 もちろん、外国で実際に着られているようなフォーマルなデザインではない。肌面積はそこそことはいえ胸の谷間が大きく露出している、女子高生にしてはかなり扇情的な格好だ。


(夕島先輩、ああいうのを着る人だったんだ……それもお兄ちゃんの前で……)


 彼氏の前ならまだ分かる。

 文化祭のメイド喫茶なんかでも、客寄せのために仕方なくセクシー路線を突っ走ってしまうことはあるかもしれない。

 しかし、しかしだ。彼女の目の前に居るのはあの兄だ。

 生まれてこの方彼女などいたことがあるはずもない、あのバカなのである。


『えっ? 嘘、僕ニヤニヤしてた?』

『うん。すっごく』


 女性に対する免疫なんてあるわけがない。まして美少女のメイド姿となればなおさら。だから鼻の下をみっともなく伸ばしてしまうのは、流石のあたしだって同情してあげなくもないかもしれないけど、でもはっきり言ってキモい。


(あーあ、お兄ちゃんフラれちゃったね。ドンマ……って!?)


『――結衣花さんのメイド姿、あんまり他の人に見せたくないかも』

『こ、孝樹君……っ!?』


(な、何で照れてるの……!?)


『あっ、こ、これはその……ほら、外で着るのには向いてなさそうだからっ』

『もう……心配されなくても、この服は外では着ないし……それに』

『それに……?』

『わ、私がお仕えするのは、あなた様だけ……なんですからねっ』


(ぐはっ……!?)


 想定外にもほどがある姿を見せる彼女に、あたしは思わず吐血しかけた。


(えっ嘘まさか惚れてるの? お兄ちゃんに? あんなヤツに? あの美少女が? 出会ってまだ一週間ちょっとだよ!? 惚れる要素どこ? いやあり得ないっていくら何でもチョロすぎだってそんなわけないないないに決まってる)


『もちろんです、ご主人様。この前お買い得だったステーキを買っておきました』

『おぉ……!』

『しかも私が手作りした塩麹しおこうじに三日前から漬け込んであります。柔らかくて美味しくなってますから、ご期待くださいね』


(メイドとして頑張るために? いやあのバカのためにそこまでする? 日給二千円のためにわざわざネットであのメイド服それも過激なデザインのやつを買う必要ある? 見せつけて誘惑するためとしか思えない胸元ガラ空きメイドのコスプレする? ひょっとしてコスプレ好きなのかなあの人………………ぐへへ)


 ――だ、だめですよぉご主人様……そ、そんなこと……私の仕事に含まれてませんってばぁ……!

 ――へへっ、良いじゃないか結衣花。たまには……な?

 ――いけませんご主人様ぁ……あぁっ……そうされたら私っ……。

 ――くくっ。ほぅら、結花だって結構乗り気じゃないか!

 ――だ、だって……もうっ、ご主人様の意地悪ぅ……。


 深夜零時を回ったリビング。妹二人が寝静まった頃合いを図り、密会を楽しむ禁断の主従。表では清楚可憐で優秀なメイドを演じている夕島結衣花の本性は、主人に叶わぬ思いを寄せる大人の女であった――。


(ぐへへへぇ…………って何考えてるのあたし!?)


 そんな二人の様子を盗み見ている者がいた。主人の妹だ。喉の渇きを覚えて一階へ下りてきた彼女は、あろうことか実の兄に対して秘めた恋心を抱いている。とはいえ普段はそんな感情など微塵もさとらせず、むしろまるで心の底から嫌っているかのように接している彼女なら、この場に怒鳴り込んで糾弾することは易しかった。しかし彼女には、なぜかそれができなかった。しようとさえもしなかった。

 恋い焦がれる男が自分ではない女と甘やかな空気をかもし出していること、そしてそれを扉の陰から隠れて見つめることに、彼女は嫉妬しっと以上の激しい興奮を覚えてしまっていたからだ――。


「うわぁああっ!? ……ゆ、雪奈?」

「いたたっ……な、何よ」


 ついつい不健全にもほどがある妄想の彼方、それも未知の領域へと引きずり込まれかけていたその時、あたしはいつの間にかリビングの出口に差しかかっていたお兄ちゃんと真正面からぶつかってしまった。覗き見していたことは流石にバレたらしく、つい目を背けてしまう。


「別に入ってくればよかったのに」

「だ、だってその……いい感じだったし」

「いい感じ? 何が?」


 このバカが、と溜め息をついたあたしに、一歳年上の兄が気圧けおされている。自分で鏡を見ているときは普通だと思っているのだが、どうやらあたしの目つきは結構悪いらしい。おかげでモテ期がまったく来ない。

 つまり、ほんっっっとうにムカつくことだが、恋人ができたことがないという点であたしはお兄ちゃんコイツと同じなのだ。でも別に負けてるわけじゃないし、女子高生になればあたしだって――そう思っていたのに!


「あーあ、ほんっとアンタはバカね」

「ちょっ!? おいおい、バカはないだろ流石に」

「バカはバカでしょ、このバカ兄貴が」


 ――だからせめて、こういうラノベ主人公みたいなことだけはして欲しくない。寄せられた好意にちゃんと気づいて、スマートに付き合って欲しいのだ。


「あのさぁ……何にも思ってないヤツに、いくらメイドだからってわざわざあんな大胆な衣装を買ってきて着るとでも、アンタは本気で思ってるわけ?」

「そ、それは……」

「あー……悪かったわね。思い出させちゃって」

「い、いや……もういいんだ」 


 そのためなら嫌われることだって、忘れたい過去を引きずり出すことだっていとわない。一応コイツはあたしのお兄ちゃんなんだから。お兄ちゃんには、家族には、幸せになって欲しいから。


「でも……このままじゃ、何も変わらない」

「雪奈……」

「お、応援……してるんだからっ……それじゃっ!」


 ――でも、コイツを幸せにするのはあたしだ。できないことは分かってるけど。


(こ、こここれがN★Rだっていうの……!?)


 今夜はこれをにしようと決めて、あたしは想像の中の絶望にたかぶりながら自室へと急いだ。



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