第9話 新生活の幕開け

「実は私……家から出たいんです」


 ぽつりと言った夕島さんに、僕たちの食事の手が止まった。


「……そうなの?」

「あ、えっと……うん。最近お母さんとあまりうまくいってなくて」


 小さな声で伏し目がちに言う夕島さん。


「そ、そんなに深刻じゃないですよ? ただときどき、今日は家に帰りたくないなって思う日があって……」

「今まではどうしてたの?」

「ホテルに泊まろうにもお金ないし、仕方ないから普通に帰ってたよ」


 思わずたずねた僕に、夕島さんは肩をすくめる。

 前髪の奥でまたたく長い睫毛は、どこかはかなげに見えた。


「お金がないっていうのは――」

「うん。お小遣いとかもらってなくてね。だから、日給二千円だって私にとっては超高額なの。何日分か貯めれば安いホテルに泊まれるでしょ?」

「……」

「いいのいいの。ごめんね、こんな志望動機で」

「い、いえ……」


 これには流石の雪奈も、聞いてしまったことに罪悪感を抱いたらしい。

 それにしても、完璧美少女にみえる夕島さんもずいぶんと大変な問題を抱えていたものだ。外泊したくなるくらい家を出たいということは、家庭の状況が相当酷いのだろう。事情を根掘り葉掘り聞くわけにはいかないが、少しでも彼女の力になってあげたいと思った。


「僕たちでよければ力になるよ、夕島さん」

「我に供物を捧げるがいいぞ――さすれば汝に力を授けよう」

「……お願いされたら、少しは協力してあげなくもないわ」

「まぁ、なんだ。あまり他所よその家のことには首を突っ込めないけど、困った時はいつでも相談してくださいね。ジャカルタは時差二時間なので」

「お父様まで……皆さん親切にありがとうございます……っ」


 口々に言う僕たちに、彼女は口元を緩めてくれた。

 食べ終わった後、夕島さんは洗い物もやってくれようとしたけれど、流石に悪いので僕と雪奈とでやった。夜もすっかり遅くなってしまったので、彼女のことは父に車で送ってもらった。ちなみに「眷属を邪悪なる父から守るのは主である我の役目」と言って、澪奈も同行した。



 ***



 翌日。空港の検査場の前で、僕と妹たちは父との別れの時を迎えていた。


「澪奈。父さんがいなくても元気で良い子にするんだぞ」

「わ、我を子ども扱いするでない」

「すまんすまん、その意気だ! 雪奈」

「……何よ」

「今年はお前の高校受験なのに、傍にいてやれなくてごめんな」

「別に……お父さんがいてもいなくても関係ないから」

「よーし、よく言った」


 二年間の海外出張。夏休みには帰ってくる予定らしいけど、本当かどうかは分からない。確かなのは、父さんと僕たちがしばらく離れ離れになるということだ。澪奈と雪奈の頭をわしゃわしゃと撫でる父は楽しそうで、だけど少し寂しそうな笑顔を浮かべていた。


「夕島結衣花さん。ありがとう、君まで一緒に来てくれて。土曜日なのに済まないね」

「いえ、孝樹君たちとはこれからお世話になりますから」

「まったく、できた娘さんだ。……だけど、もし大人の力が必要になったら、昨日教えた俺の電話番号に――」

「おい父親」

「ふふっ、その時はよろしくお願いします」


 いつ連絡先を交換したのかと後で夕島さんに聞いたところ、車で送ってもらった時にとのことだった。いい歳して何をやってるんだか……澪奈に一緒に行ってもらって正解だったかもしれない。


「そして孝樹。今日からはお前が年長だ。雪奈と澪奈をしっかり守ってやるんだぞ」

「誰がこんなヤツに――」

「むしろ兄は我が守る方――」

「こらこら二人とも。ちゃんと仲良くしないと、お小遣いあげないぞ?」


 こりゃ前途多難だな、と背中を軽くはたかれる。


「……でも、お前はまだ高校一年生。体は大きくなってきたみたいだが、世間からすれば子供だ。法律面でも、判断能力の面でもな。だから、困ったことがあったらすぐに父さんに連絡しろよ。分かったな?」

「分かりました。夜中にでも電話してやるよ」

「おう、いいぞ。多分まだ働いてるしな」

「出張先でもブラックなのか……」



 それからおよそ一時間後、父を乗せたジェット機は轟音とともに羽田の空を飛び立っていった。少しかすみがかっている春らしい蒼空に、ジャカルタへと向かう白く真っ直ぐな航跡がたなびいている。


「いいお父さんだね」


 ガラス張りの壁の向こうに広がっている長大な滑走路を眺めながら、夕島さんは目を細めた。


「これから二年間いないって言ってたけど、やっぱり寂しい?」

「まあね……だけど今までも仕事で遅かったし。それに――」

「……それに?」


 きょとんとしてこちらに目を向けてきた彼女から、僕は少し照れくさくなって目を逸らした。


「そのぶん……一人、増えたし」

「……へぇ?」


 楽しそうな声が脇腹をちょんちょんとつついてくる。


「その一人って誰? 誰なのかなー?」

「それはその……ああもうっ」


 深呼吸した僕は、光に照らされて白く輝いている彼女を見つめた。


「結衣花さんに決まってるでしょ」

「――やっと名前で呼んでくれた」

「だって……恥ずかしいし。それに何ていうか、ちょっとおそれ多くて」

「ふふ、何それ。私はクラスメートで、そして孝樹君のメイドなんだよ? そういうわけで今日からよろしくね、ご主人様?」


 あざと可愛いポーズをとる夕島さん――いや結衣花さんの笑顔。

 その後ろから突き刺さってくる、雪奈と澪奈の痛々しげな視線。


「ああ……よろしくね、結衣花さん。さあ帰るぞー。雪奈、澪奈」

「はーい」

「命令すんなし」

「眷属の分際で偉そうに……」


 溜め息をつく僕の横で、結衣花さんがまた楽しそうに笑っていた。



  〈 第1章 夕島結衣花との出会い〉Fin.

  〈 第2章 美少女メイドがいる日常〉へ続く

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