美しい場所
白河夜船
20220129
旅に出ようと友が云った。
どこか遠くに、美しい場所があるらしい。
人気の無い寂しい駅で、友と二人、電車を待った。線路脇に茂った樹々が、風に吹かれて若葉を揺らす。空は青。雲は白。降り注ぐ陽は蜂蜜の色。旅に相応しい、好い日和だ。
ベンチに座ってうつらうつらしていると、ごぅ、と不意に地面が震えた。見れば、電車が駅から遠ざかってゆく。友の姿は消えていた。
気儘なあいつは、寝ている私をほったらかして、ひとり電車に乗ったのだろう。
次の電車を待とうかしら……と思ったけれど、壁に張られた時刻表は、一面墨で塗り潰されていた。これでは次の電車がいつ来るのだか分からない。
困って首を傾げたところで、時刻表のすぐ横に古ぼけた張り紙があるのに気がついた。
■和■年■月■■日をもちまして、■■線を廃止―――
ああ、と私は思わず声を洩らした。ここはもう随分前に廃駅になっているじゃあないか。
それなら、さっき見送った電車はなんなのだろう。友はきっとあの電車に乗り込んだ………
旅に出よう。
どこか遠くに、美しい場所があるらしい。
友の言葉が頭に浮かんだ。友の云う「美しい場所」は、この捨てられた線路の先にあるのか。
私はホームから飛び降りて、歩き始めた。線路に沿って、前へ、前へ。友の乗った電車を追って。
倒れた『止まれ』の標識を越え、紫雲なすホトケノザの
いつの間にやら辺りが薄暗くなっていた。
もう日が暮れるのか。驚いて空を見上げたけれど、太陽はいまだ中天にある。天気が崩れたわけでもない。
不思議に思いながらも進んだ。進むほど、視界の明度と彩度が下がる。
やがて、私は闇に包まれた。
進む。進む。手探りしても道標となるものはなく、足許の感触だけが頼りだ。傍に線路があるらしいのを、慎重に蹴って確かめながら歩いた。
地面が少しずつ
生温い、柔らかい、ぬめったものが、足に纏わりつくのを感じた。どこか懐かしい感触……何だったろうと考えてみて、思い至った。水を張った田んぼの泥だ―――そのものではないだろうが、よく似ている―――泥は次第に
足許ばかりに気を取られ、俯いていた私の目が不意に痛んだ。一瞬戸惑い、はっとして顔を上げた。
光だ。
私は一生懸命、光に向かって歩を進めた。近付くにつれ、光が半円を形作る。いつからか、私はトンネルに入っていたのか。
トンネルの先に空がある。
なんと美事な
トンネルを抜ける。
私は空に立っていた。
いや、いや。違う。水面に空が映っているのだ。目の前にあるのは、地平線まで続く広大無辺の沼だった。
一面に蓮の花が咲いている。
薄紅色の天上楽土。
「にゃあ」
沼底から友の声が聞こえた。
ここか。ここが「美しい場所」なのか。やっぱり電車に乗って、先に着いていたんだな。
私は足を踏み出した。
前へ、前へ。
泥がじわじわ深くなる。
水に浸かる。泥に埋もれる。
沈む、
沈む、
胎内にいるかの如き心地好さ。
美しい場所 白河夜船 @sirakawayohune
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます