9話

 挨拶ってなんだっけ。いや、わかってはいる。わかってるはずなんだけど、言葉にならない。それなら、せめて自己紹介くらい。


 ……自分の名前が出てこないって、そんなことあるか?


 いっそこのまま曲を続けるか。ギターのネックを見やる。次の曲は――


 駄目だ、最初のコードはおろか、タイトルすら出てこない。セットリストを仕込んでおけばよかった。


 思考が停止したまま、時間は刻々と過ぎていく。


 ギターを持つ手が汗でぬるついてきた。焦りで貼り付いた喉に、無理やり唾を流し込む。


 こういうときは客席を直視しちゃいけない。目を閉じた。


 何でもいい。何でもいいから、場をつながないと。


 この際、恥を忍んで、アガって段取りが飛んだというしかない。ゆっくりと息を吐いて、吸う。唇を薄く開き――


「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」


 口から飛び出たのは、予想外の言葉だった。


 何だこれ。どっかで聞いたことあるようなフレーズだけど。


 唇はなおも勝手に動く。


「――しからば、歌は白昼夢。虚と実の間に揺らぐものに御座います」


 客席の空気が変わった。全員の視線が一点集中して、眉間がビリビリとしてくる。


「私は、嘘とまこと媒介ばいかいする者。名は御座いませぬが――語り部、とでもお呼び下さいませ」


 戸惑っている僕の意識に反して、唇の端がつりあがる。


「此れは、あるいは、とうにの事――」


 僕の身体は、勿体をつけるように虚空を仰いでいた。


六弦琴ギターを担ぎ、闇をそぞろ往く、病んだ若者がりました」


 滔々とうとうと語るに心当たりはあった。この芝居がかった言葉遣い。僕の肉声とダブって、右耳に聞こえる、あの声。


「往き着いた四つ辻では、黒衣の男が佇み、煙草を呑んでいた。男は彼に一瞥いちべつをくれて、『待っていたよ』と微笑むので御座います」


 これはザ・フレイの『ユー・ファウンド・ミー』の歌い出しを引用しているな。アミスタッド通りと一番通りが交わる角で、神を見つけた――。


 自然と指が動いてイントロを弾き始めたが、心もとない。惰性で身体は動くけど、意識が伴っていないというか。ライン作業中に、脳が飽きてきたときがこんな感じだ。


 歌っているうちに、徐々に意識が散漫になっていく。


 何かを語って、弾いて、歌っているという感覚だけはあった。ベッドの中でさっき見た夢を反芻はんすうするような、覚束ない感じではあるけれど。



 若者は男を責め立てる。なぜ便りのひとつも遣さなかったんだ。僕はこんなに辛い思いをしてきたのに。


 いや――、彼は自嘲する。いったい何が辛いんだろう。


 何が原因だったかはもう思い出せない。気がつけば何もなかったし、何かを得ようという気力もなくなっていた。


 酒を煽っては夜に呑まれていく毎日、焦燥感だけが生きていることを思い出させてくれる。


 自分で選んだはずの人生は何ひとつ上手くいっていない。空回ることさえ諦めた。薄暗い部屋でうずくまって、時が過ぎるのを待っている。死にたいのか、生きたいのかもわからないまま。



 どこかで聞いたような話だ。

 

 何だって、こんなありふれて辛気臭い話を語っているのか。誰も求めてないよこんなもの。


 そういえば、尺大丈夫かな。


 視線でホールの壁にある時計を探す。あと数分だった。一曲やるには足りない。


「物語は半ばでは御座いますが、続きはまた、何処かにて。――さあ、うつつへお戻りを。私も虚実のあわいへかえる事と致しましょう」


 語り終わると同時に肩から背中にかけてがドスンと重たくなり、急に現実感が戻って来た。


 目の前ではやけに熱のこもった拍手があがっている。


 何が起こったのかよくわからないまま、呆然として聴衆に頭を下げる。


 ギターとルーパーを抱え、よろよろと楽屋に戻った。


 ギターを立て掛けて、力なく椅子に腰掛ける。一体どうしたっていうんだ。


「随分とお困りのご様子でしたので、助太刀致しました」


 弾かれるように顔を上げると、対面に異様に肌の白い人物が座っていた。


 淡い茶色の髪をアップにし、和装の黒羽織を着ている。首元に巻いているのは赤いスカーフ。


ようやくお目に掛かれましたね、芳道殿」


 ニヤリと吊り上がった赤い唇。切れ長の眼。人間にはあり得ない紫色の瞳が、僕を見据えた。

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オルタネイティヴ・ナラティヴズ ー音楽活動投げ出した僕だけど、よく喋る霊か何かに取り憑かれてワンマンライブ目指す羽目になりましたー 三次空地 @geniuswaltz

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