第二章 然らば、歌は白昼夢
8話
スピーカーから、安っぽい打ち込みのカラオケが流れている。たぶんどこかの配信サイトで購入した音源だろう。苦手なんだよな、こののっぺりした音。
ステージでは、ピンクのワンピースを着た、巻き髪の女性が、スタンドマイクで歌っていた。
特別上手いというわけではないけど、楽曲と
シンガーソングライターじゃないから、全部カバーみたいだけど、ほとんど知らない歌だった。
それよりも、スタンドに置いてあるギターが気になる。
ピンクがかったブラウンで、ピックガードが桜の花弁をかたどっている。指板のインレイも桜の花。ヘッドウェイが出している、材質に桜を使うラインだ。あれはいつ演奏するんだろう。
「ここにいる方は、皆さん音楽が好きなのでわかると思うんですけど。私、大好きなバンドがいて。ライブに通い詰めてたんです。ボーカルの人が好きで、物販でお話できるのが楽しみだったな」
次が最後の曲だといった雨音さんは、語り始めた。
仕事が大変で辛い思いをしていたけど、彼らの音楽があったから頑張れた。売れないバンドマンを追っかけて何になるのか、といわれても平気だった。彼こそ、生活の全てだったから。
「でもね、彼、亡くなってしまったんです。そしたら私、頑張れなくなっちゃって。仕事に行けなくなって、どうやって生きればいいのかもわからなくなって。……そんなことで、バカみたいって、思うかもしれないけど」
そういって、彼女はギターを手に取り、椅子に腰掛けた。
「私ね、本当に死んでしまおうかと考えたこともあったんです。……だけど、そうじゃないですよね。彼のおかげで生きてこられたのに、自分で命を絶つのは、恩を仇で返すのと同じ。だから、ちゃんと生きようって思って。でも私、ちゃんと生きるってよくわからなくて。何を始めたらいいのかわからなかったから、とりあえず、あなたと同じように歌っています」
雨音さんは緊張した面持ちで、演奏を始めた。
リズムとテンポは安定している。左手のミュートもできているし、弦をかすることもない。丁寧に練習してきたであろう痕跡はあった。その点、伸びしろがあるといえる。
ライブ後に「君はリズムもピッキングもゴミ」「人前に出るならもっと練習しろよ」と、六歳年下の先輩にボロクソにいわれた僕とは大違いだな。
彼女の素朴な声は、電子的な打ち込みよりも、アコースティックのほうが引き立つのかもしれない。ギターの演奏にも神経を割かなくてはいけない分ぎこちなくはあったけど、それを差し引いても気持ちの入った声だった。
Coccoの『陽の照りながら雨の降る』、これは僕も知っている曲だった。亡くなった人を想う歌なのだと思っている。
何もかもを見失っていた雨音さんが、生きる力を取り戻した瞬間が見えるようだった。
異変が起きたのは、二コーラス目あたりからだ。次第に声が震えてきた。やがて、言葉が出なくなり、演奏も止めて、彼女は俯いてしまった。
「ごめんなさい」
鼻をすすり、小さく謝る声に、観客は口々に「大丈夫!」「がんばって!」と声援を送った。
雨音さんは、声援に応えるように頷く。
ネックを握り直し、顔を上げた。頬に流れる涙もそのままに。
ピッチのぶれも、ミスストロークもものとせず、食らいつくように歌う姿に、ステージに登場したときの心許なさはもうなかった。
最後のフレーズを歌い切って、放心した様子の彼女に、拍手が上がる。
雨音さんは目元を拭い、はにかんで笑うと、深々と頭を下げた。
「すみません、みっともないところをお見せてしまって! ステージで泣いちゃうなんて、恥ずかしいな」
楽屋のドアを開けた僕を振り返り、ハンカチで目元を押さえた雨音さんは照れ笑いを浮かべた。
アイラインとマスカラが涙で溶けて、目の周りが黒くなっている。ジロジロ見るのもいけない気がして、準備をする体で視線を逸らした。気まずい。
「いえ……。最後の弾き語りが一番良かったと思いますよ。僕は」
ギターとルーパーを手にすると、雨音さんの反応を待たずに、僕はそそくさとステージへ出た。
しかし、だ。
どうしてこうなった。
ルーパーの赤い
僕は今日、これをスタジオに持ち込んで遊んでいただけだったんじゃないのか。何でまたライブをする羽目になってるんだ?
「またお腹痛そうな顔してる」
配置を変えに来た
「そんなに気負わなくても大丈夫ですって。この間と違って、気楽にやってくれたらいいので」
「あんなライブ見せられたら、僕の出る幕ないんですよ」
椅子をステージの隅に寄せながら、河南さんは嬉しげにいう。
「いやあ、これは俺も予想外だったな。ゆりちゃん……じゃない、雨音さん、持っていきましたね。俺も最後泣きそうになりましたよ」
河南さんは、度々雨音さんの名前を呼び間違えていた。
元々の知り合いのようだが、どういう関係なんだろう。挨拶もそこそこにリハに入り、すぐに開場したから聞けなかった。雨音さんは開演までナーバスな様子で、声をかけるのは気が引けたし。
「でも、それはそれでしょ。ミッチーはミッチーのライブをすればいいんですよ」
期待してますよ、といい置いて、河南さんはPAブースへ去っていった。
……我ながら人が好すぎるし、流されすぎている。
行きつけのスタジオの店主が、「四人出るイベントで三人キャンセルになったらしいんだけど、どうせヒマっしょ? 出てやったら?」とかいったところで、僕には関係のない話じゃないか。確かに、その前の会話の流れで、予定はないといったけどさ。
ブースインした河南さんが、ギターの音をくれ、とストロークのジェスチャーをしている。
ごちゃごちゃ考えていてもしょうがない。
スタンドのギターを手に取り、ストラップを肩にかける。
ここまできたら、やるしかないんだよ。肚を決めろ、
サウンドチェックが終わると、あとは僕の合図を待つだけになる。
ストラップのねじれを直し、シールドが足に引っかからないよう、しごいて後ろに投げた。ピックをとりあげ、深呼吸をひとつ。
右手を挙げる。河南さんが頷いて、照明が落ちる。
SEの音量が煽られて、すっと引く。
溶明の中でギターのネックを握り直し、ポジションを確認する。ピックを弦にあてがい、ルーパーのペダルをカチリと踏む。円形のインジケーターが赤く点灯すると共に、演奏を始める。
練習不足で間違いやすいフレーズだったが、なんとか弾ききれた。録音は少しヨレてしまっていたけど、録り直すほどでもない。続行しよう。
ピックを床に投げて、ループしているフレーズに、今度は指弾きのアルペジオをのせる。
一曲目は、
民族音楽やプログレの要素が強いロックユニットだ。一般的には上野洋子や小峰公子の女性ボーカルの印象が強いけど、僕は吉良知彦の少し癖のある声が好きだ。歌声というより、伴奏の一部みたいで。この曲も彼のボーカル。
タイトルは『
家路を急ぐ人々の流れに逆らい、背丈ほどもある点火棒を担ぐ男がひとり。長いマントを着込み、鍔のついた帽子を目深に被って。
ガスのコックを開き、棒でガラスケースを開けたら、松明で火を灯していく。その仕事は淡々として機械的だ。なにせモタモタしている暇はない。担当区画の点火は四十分以内にと定められている。夜に追いつかれる前に、すべての明かりを灯さなければ……。
ひとつ、ひとつ、火を灯すたび、彼は心の深淵へ降りていく。
いつまでこんな生活が続くんだろう。
朝は火を消すために早く起き、すべての明かりを消す。昼間は街灯の清掃。これだけでは生活できないから、靴磨きもする。夏は額に流れる汗を拭い、冬はかじかむ指先を擦り合わせながら。
仕事を終えた男は、ふと振り返る。呼ばれたような気がして。
最後に灯した街灯の下に、黒衣の人物が立っている。深くかぶったフードからは、細い顎と赤い唇、亜麻色の髪がちらりとのぞく。
差し出された手は、雪を欺くほどに白かった。
男は夢遊病者のような足取りで歩み寄り──
ルーパーを踏み込んだ感触で我に帰った。
しまった、やらかした。
集中しようとして、悪い癖が出た。
ナルシスティックで自分でも嫌なんだけど、演奏中に楽曲の世界に入り込んでしまうことがある。こういう時は完全に自分をモニターできてないから、ひどい演奏だったはずだ。
客席は白けているのか何なのか、静まり返っている。
そうだよな。雨音さん目当てで来た人にとっては、僕のライブはオマケみたいなもんだ。
頭を下げると、パラパラとまばらな拍手が上がった。
とりあえず、挨拶をしようと軽く口を開く。
その瞬間──。
何をいうべきなのか、わからなくなった。
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