7話

 仕事から帰ってシャワーを浴びるまでは、座らずに終わらせることにしていた。そうでないと、疲れが一気に押し寄せて動けなくなるからだ。

 全身に使えるシャンプーを頭からかけ、ぞんざいに洗い流すだけ。スウェットを着たら、髪を乾かすのもそこそこに部屋へ戻る。

 テーブルの前に座り込んで、見るとはなしにテレビを点けた。蛍光色の衣装を来たタレントがチームになり、大掛かりなセットで身体を張ったゲームをして、得点を競い合う番組をしていた。

 コンビニの袋から、パウチの惣菜とハイボールの缶を取り出す。

 自炊する気力は残ってないし、弁当は仕事を思い出すから買う気がしなかった。どうせこの惣菜も、職場と似たような環境で作ってるんだろうけど。

 封を切ったパウチに割り箸を突っ込んで、モツ煮をつつく。こんにゃくのぶりぶりした食感が苛立たしい。目についたから適当に買ってきたけど、気分じゃなかったな。缶のプルタブを起こし、口をつける。

 背後のベッドにもたれかかって、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。ゲームに勝った俳優が放送中のドラマの宣伝をする、司会の芸人コンビの片方が「なんだ番宣かよ」と毒突き、相方に「やめなさい」とたしなめられる白々しいくだり。

 リモコンのボタンをポチポチと押してみるが、めぼしい番組はない。電源を切った。

 ハイボールを半分くらい飲んだところで、身体を起こし、煙草を吸おうと箱に手を伸ばす。ライターを取り上げて思い出した。そうだ、ガスが切れてたんだっけ。コンビニで買えばよかった。

 煙草の箱を投げ出し、スマホを手に取る。ホーム画面に並んだアイコンのいくつかに、赤いバッヂがついていた。

 派遣会社から、給与明細が発行されたというメール。ペーパーレス化で、ウェブ上で確認するようになっている。ログインしてみると、諸々差し引かれて、十六万円ちょいか。いつもどおり。

 あとはゲームの通知と、妹の香里かおりからのメッセージ。


 ――今月分、早くいれといて


 なんだって、こいつにこんなもののいい方をされないといけないんだ。金がないのは、お前が働かないからじゃないか。

 香里は僕が就職してすぐくらいの時に、シングルマザーになった。相手の男は逃げた。

 妊娠が発覚したときは、自分がきちんと働いて育てると両親に泣き落としたようだが、実際のところは、働くどころか自分の子供の世話すらしない。

 身体を壊して実家に帰っていたとき、家事すらやらないから驚いた。日がな一日ソファにねそべって、スマホをいじっている姿しか見ていない。時々夜中に出ていく。新しい男と会ってるんだろう。

 孫の育児を一手に引き受ける羽目になった母は、こんなはずじゃなかったと嘆く。でも、約束が反故にされるのは既定路線だった。

 小学でバレエ教室に入って「先生が嫌い」と辞めたときも、中学で小鳥が飼いたいといって世話を僕に押し付けたときも、高校でバンドを組むからと高いエレキギターをねだって投げ出したときも、ボーカリストになりたいからと音楽専門学校に入って一年で退学した時もそうだったじゃないか。

 そういうと、母はいつも「今回は本気だと思った」という。あいつはそれもわかっていて足元を見てるのに。甘いんだよ。

 面倒を起こしたくないっていうのもあるんだろう。香里は欲求が通らないと、ヒスを起こして泣き叫んだり、家出して補導されたりする。それで父の機嫌が悪くなって、「お前らが悪い」「顔も見たくないから出ていけ」と母や僕に当たり散らすのがいつものことだった。

 家庭内に情緒不安定な人間が二人もいると、どうしようもない。


 ――死んでくれればいいのに


 送信欄に入力してみる。送信ボタンをタップしようとして、ため息をつく。消去した。

 こんなの送って、当てつけに死なれたら僕がなじられる。生前どんなクズだったとしても、死んだら偉いんだもんな。「色々あったかもしれないけど、家族じゃないか、どうしてそんな冷たいことがいえるんだ」とかいわれるんだろう。

 僕だって、こんなこと思わなくていい家族が欲しかった。

 銀行のアプリを開いて、実家に送金した。金さえ入れときゃ文句はないんだ、礼もいわれないけど。

 スマホの音楽アプリを開いて、再生ボタンをタップする。

 送迎バスで聴いていた曲の続きが流れる。乾いたドラムと、情緒的なエレキのアルペジオ。toeの『グッドバイ』。

 昔、ライブハウスのSEで流れていて、スタッフに曲名を訊ねたんだっけ。その日どんなライブがあったかは忘れた。きっと大したことなんて起きてない。

 終演後、物販スペースに立つ共演者を遠巻きに眺めながら、精算を待っている時間が一番嫌いだった。どうしてここにいるのか、なぜこんなことを続けているのか、よくわからなくなるから。

 誰も振り向かなかったのは、僕の歌が空っぽだからだ。知ってる。

 ステージに立つ人は「活力を与えたい」とか「悲しみに寄り添いたい」とかいうけど、僕は自分の歌に語るべき思いを見つけられなかった。

 僕の書く歌は感情の瀉血みたいなものだ。リストカット痕を見せびらかすのとそう変わらない。そんなもの聴かされても困るだろう。不幸面晒して憐れまれたいなら、ネットの匿名掲示板で充分だ。

 ふと音楽の音量が一瞬小さくなり、ポコンと着信音が鳴る。画面上に通知がポップアップした。


 ――ご無沙汰しております! 先日は素晴らしいライブを……


 河南さんからだった。操作せずにいると、通知がスッと上へ引っ込んでいった。

 あのイベントから、もう三ヶ月くらい経ってるんだっけ。

 あれ以来、店に足が向かなかった。顔を合わせたら、ライブ復帰の話に持っていかれそうだし。 

 彼のいうことが口からでまかせとか、社交辞令だとかは思ってない。いちいち大袈裟だけど、心にもないことをいう人ではないからだ。

 でも、僕を買いかぶりすぎだ。

 音楽なんてただの趣味だよ。何かを犠牲にしてまでするようなことじゃない。

 学生時代の活動だって、自主企画だ、オーディションだ、レコーディングだと沸き立つ周りを横目に、実入りのないライブばかりしていた。

 出入りしていたライブハウスのブッカーも、数合わせで呼んでただけだろうな。

 学生バンド、シンガーソングライター、オケをバックに歌う地下アイドルもどき、ジャンルも主義主張も観客の傾向もごちゃごちゃに入り混じった地獄みたいなイベントで、二十分くらいの出番に一万円近いノルマを背負わされて。

 僕がそんなイベントにばかり呼ばれていたのは、僕に見る所も、目的もなかったからだ。

 河南さんは、僕にミュージシャンとしてのプライドがあると信じてるなんていったけど、残念ながらそんなものはない。

 メッセージは開封しなかった。スマホをスリープさせて、テーブルに置く。

 やっぱり、あんなイベントになんて出るんじゃなかった。

 それか、いい加減なライブをして、大先輩方に無礼の一つでも働けばよかったんだ。そうすれば河南さんは、間違いなく軽蔑の目を向けてくれたはずだ。出禁にもしてくれたんじゃないか。

 現場の雰囲気に気圧されて、そんな蛮勇は湧きようがなかったけど。

 あの日のライブは、確かに凄かった。今思い出しても鳥肌が立つ。

 その分よくわかった。僕はただの音楽愛好者であって、表現者じゃない。人に何かを伝えようという気持ちがないんだから。

 河南さんはオープンマイクに出てるんだから人前にでる気はあるんでしょ、とか食い下がるだろうけど、あれは飲み屋でおっさんが歌うカラオケと同じだ。やることやって気持ちよくなってるだけなんだから、オナニーと一緒だよ。

 趣味なんか、いい加減で気楽なものでいいんだ。息抜きでまでストレスを抱えたくない。

 ほっといてくれればいいんだ、僕のことなんて。

 ベッドに寝転んで目を閉じると、工場のベルトコンベアーの残像がぼんやりと浮かんでくる。黒い容器。大量のパスタ。

 溜息を通り越して、呻き声が漏れる。

 そんなのもう見飽きてる。もっと別のものが見たい。


たとえば」


 例えば、もっと、そう。楽しくなれるような――


 客席を埋め尽くす観客の視線。スポットライトの熱。エメラルドグリーンの壁に、沢山の額縁。シンクウカンのステージだ。

 手にしているのは赤いエレアコ。サウンドホールは中央にない。上部に大小のものが十数個、枯れ葉のようなデザインと共に配置されている。

 オベーションのセレブレティ・エリート。昔弾いてたギター。

 

 急に広がった生々しい光景に、目を開けて飛び起きる。

 やめろっての。だから興味ないんだよ、そういうのは。


「全く、仕様のない御方で御座いますねえ」


 ねっとりとした声が右耳に聞こえる。ゆっくりとそちらへ視線を向けた。

 備え付けのテレビ台、少し型が古く厚みのある液晶テレビ、スタンドに立て掛けたヤマハのアコギ。見慣れたものしかない。

 わかってるんだよ、本当は。これが気のせいなんかじゃないってことは。

 あのイベントの日からだ。僕は度々この妙な声を聞いている。必ず右耳に。

 原因が何であれ、これ以上わけのわからない現実は背負いたくない。

 テーブルに放り出した薬局の紙袋を掴み上げて、睡眠薬のシートを取り出した。錠剤をハイボールで飲み下す。電気を消して再びベッドに横たわる。

 もうこのまま、目を覚まさなかったらいいのに。

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