第2話 チケットあります

 オレはそのボロ屋の店に足を運んでいた。もう会社に行かなくていいし、時間はたっぷりあるのだ。


 入口に暖簾のれんがかかっている。でもなにも書かれていない。格子の引違い戸に、無造作に“チケットあります”とだけ書かれた紙が貼ってある。


 いかにもあやしい。でもここは繁華街じゃないから、おかしな店ではないだろう。ていうか、すごく気になる。


 ゆっくり戸を開いた。


 首だけのぞき込み、あたりを見まわした。なにもないし、だれもいない……。


 店内は、地方の民俗資料館のようなさびしさだ。というより、店のていをなしていないように思う。部屋の真ん中に、記載台がひとつだけあるだけだ。レストランや回転ずしの入口に置いてあるやつだ。そのすぐ奥にふすまがある。


 記載台には、一枚の紙切れが置いてある。ペンスタンドもある。この紙切れがチケットなのか?


 ようやく店内に入り、じっくりと紙切れを見た。


 キリトリ線がある。やはりチケットだ。半券になるタイプだ。半券の部分には署名欄がある。


 メインのところに書かれている文字を読んだ。


 「我思う故我あり」


 どこかで聞いたような言葉だ。そのとき、奥のふすまが開いた。


 「うわー!」


 腰が抜けそうなくらい驚いた。


 「ソーリ、ソーリ」


 現れたのは、スーツを着た中年男性だ。


 しかも外人。


 「あ……すみません。チケットありますっていう張り紙が気になってきたんですけど……」


 「オーケーオーケー! ワタシはニックだ。ヨロシク!」


 「あ……どうも……。あの、このチケットは一体なんなんですか?」


 「アナタを進化させるチケットだよ」


 「しんか?」


 「いまアナタはピンチだ。ピンチはチャンスだよ」


 「……」


 「さあさあ、そのチケットに署名して!」


 「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。これはなにかの勧誘ですか?」


 青い目の外人は、にこやかな顔から急に恐い顔つきになった。オレはすこしたじろいだ。


 「……書かないと、とんでもないことになるよ」


 なんか、腹が立ってきた。脅せばオレが言うことを聞く人間だと思われていることにだ。たしかにいままでのオレなら、署名していたかもしれない。


 しかし、いまのオレは失うものなんてない。家にネコもいない。なにより、ムシャクシャもしている。人生どうでもいいとさえ思っている。


 よし決めた。思いっきりこの外人営業マンにキレてやる。


 「ざけんじゃねえよコノヤロー! 脅すんじゃねえよコノヤロー! なんかの勧誘だろコノヤロー! 書くかよコノヤロー! ツイッターでここのこと書くからなコノヤロー!」


 人生初だ。こんなに怒鳴ったのは。外人の青い目がビー玉みたいに大きくなった。


 スッキリした。タケシの映画「アウトレイジ」みたいに、一度は思いっきり怒鳴ってみたかったんだ。


 さあ、もう用はない。ここから出よう。


 「ヘイ! 待ちなさい! まずは名前を書きなさい! その戸を開いたらノーだ!」


 ビー玉外人は記載台ごと持って、オレの前に立ちふさがる。


 おいおい。こっちは生まれて初めてくらいのエネルギーでキレてんのに、やけに営業熱心だな。オレのキレ度にキレはないのか。ナメられめんのか? ビビれよ。そう考えたら、よけいに腹が立ってきた。


 「ぶち殺すぞコノヤロー! どけよコノヤロー! ナメてんのかコノヤロー!」


 アウトレイジ・スイッチはフルスロットルだ。ついでにボロい戸を思いっきり蹴った。戸が外側にはずれた。


 「!」


 開け放たれた戸のそとは、見たことのない不気味なものになっていた。


 さきほどいた景色はない。青黒い空間が広がっていた。


 いや、空間ではない。青黒く艶めかしいジェルだ。ジェルのようなものが一面に広がっている。ピチャピチャいって、うごめいている。映画「アビス」のアレみたいな感じだ。とにかく気持ち悪い。


 はずれた戸は、ジェルにゆっくり飲み込まれていく。


 「な、なんだこれ……!」


 怒っていたことさえも忘れてしまう、イリュージョンだ。


 「マダ間に合う! 早くここに名前を!」


 ビー玉外人が記載台を強引にオレに突き出した。


 人間、なにがなんだかわからなくなると、他人の言うことを素直に聞いてしまうようだ。オレはペンスタンドからペンを抜き、チケットの半券の署名欄に名前を書こうとした。


 その瞬間、ジェルから恐怖と絶望の“音”が聴こえた。声にも聴きとれるがよくわからない。得体のしれない残酷ななにかが、“音”として脳のなかに入ってきた。背すじが凍りつく。


 同時にジェルから触手みたいなものが出て、オレの首を巻きつける。青黒いジェルに飲み込まれていく。強烈な臭気が鼻をつんざく。飲み込まれた部分は、熱冷まシートにくるまれたように冷たい。


 ビー玉外人は鼻をつまみながら、署名を急がせる。ジェルの飲み込みに抵抗しようにも、だんだん力が入らなくなる。


 名前を書けないまま、ついにペンが指からこぼれ落ち、記載台も床に倒れた。


 頭までジェルに飲み込まれた。片目を薄っすら開ける。水中で目を開けてそとを見るように、ビー玉外人はぼやけている。なにやら激しく動いている。チケットを拾い、半券をちぎっているように見えた。


 「ヤムを得ない! 可能性はかぎりなく低いが、この空白の半券だけでも持って行きなさい!」


 ビー玉外人は、強引にオレの右手をつかみ、両手でつつんで半券と思われる紙切れを握らす。


 言われるがまま、されるがまま、オレは半券を強く握った。


 人間、なにがなんだかわからなくなると、他人の言うことを素直に聞く……。


 握ったこぶしを最後に、全身がジェルに飲み込まれてしまった。


 凍りつくような寒さと、耐えがたい臭気。目をつぶり、もちろん息もしていない。意識が朦朧もうろうとしてきた。体も動かない。恐怖と絶望とはこのことか。


 これが、死ぬということなのか……。

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