笑い(町田康文体模写チャレンジ)

三次空地

笑い

 自分には子供の頃から頭を悩ませていることがある。


 腹や足が悩んだりはしないだろうから、たぶんそうだろう。自分は頭を悩ませているのだ。しかし科学が脳が思考を支配していると囁くにしろ、自分の脳が本当に頭にあるのかは知らない。もしかしたら指先や唇にあるのかもしれないがこれは実際自分の身体を解剖して見なければ解明できず、生きているうちは怖いのでよしておきたい。


 それはともかく、笑い、についてである。いつも観音菩薩のごとき微笑をたたえ、人生をエンジョイ、享受している方々には想像もつかない悩みでありましょう。これは何もこのテーマが哲学的で深遠なものだと吹聴しているわけではなく、取るに足らぬ悩みだと自覚しているからである。


 どういうわけか、人前で笑うことが苦手である。愛想笑いというものがあるのは知っているのだが、それ以前の問題である。あはは、と笑えないのである。これができないと人間関係をスムーズに築くことができない。このことは自分より周りがやきもきするようで、笑いについて考えると自分の脳味噌はもはや自分にはないのではないかと思えてくる。


 笑えないことの理由のひとつとして、自分が笑うことによって誰かが腹を立てるのではないか、という危惧がある。「あいつ笑っとるごっつムカつくわー」と悪印象をもたれるのが怖いのである。性格が保守的で臆病なのもあるが、元々言動が素っ気ない、目付きが悪い、などの素養を自覚しているからである。


 ところがこのような思考・行動は思惑とは反して嫌われる。「お前はさっきから、人をバカにしたようなしれっとした顔しとるのう。木偶の坊か。木偶の坊でももうちょっと使えるわ」などと毛髪を掴まれどつき回された挙句、市中引き回しの上晒し首にされるのである。


 自分は不器用である。生まれてくるときに脳味噌の按配、遺伝子の配列、性別の選択などをしくじり、周囲が笑うままにヘラヘラ笑ってきたものの、不器用なので笑うタイミングを間違え、たまたま機嫌の悪い御仁に首根っこを掴まれ「おどれナメとんのかワレ」などと耳に吹き込まれ放心、乾いた声でカカカカカ……と不気味に笑い、自分が気持ち悪くなるのだった。


 かように笑いというのが苦手なのだ。


 これは「人にされて嫌なことは慎みなさい」と教えられて育ったことに起因するのではないか。自分は不器用を個性だというほど図太くはないし、蛞蝓並の速度で進化はしていると思うのだが、何にしろしくじりを笑われるのは気持ちのいいものではないのは確かである。


 なんとなれば、人に笑われる、ということが怖いのだから、人を笑う、ということはしてはならないのは道理として通るのではないか。しかし、このようなことを濁った魚の目で反論すると「お前は融通の利かない子供だ。いっそ死んだほうがいいのだわ」などといわれるのだった。


 さすがに死ぬのはイヤなので、なるほど、融通ね、融通……といっていざ笑いの起きる現場にいると、もともとが不器用なものだから笑いの加減を間違え、結局「あいつ笑っとるごっつムカつくわー」と悪印象をもたれてしまう。



 もしや自分は、笑い、というサイクルに疎外されているのではないか。こっちが嫌わなくても、笑いが自分を嫌っているのではないか、などと妄想を抱き、テレビジョンのお笑い番組にかじりついてみる。私がチャンネルを合わせれば笑いの権化たる芸人たちは泡を食って逃げ出すに違いない――はは、それは面白い。見たろ。見てこましたろ。


 結果は惨憺たるものだった。芸人たちは逃げる気配も見せずネタを披露していく。第一、すんなり笑えるのである。何の抵抗もなく、あはは、と笑いが飛び出している。何も面白くない。いや、面白いのだが。考えて見れば当たり前のことで、芸人というのは笑いを売り物にしている。彼らは笑いを商品として提示し、これを金品に買えて暮らしているのだ。彼らにしてみれば笑ってもらえなければ仕事にならないわけで、笑ってもらえばもらうほど気分が良くなるのである。自分が頭を悩ませている笑いとは別物だったのだ。


 普段の笑いには金品の交換が発生しない。いうなればボランティア行為である。どうもこれが自分の困ったちゃんセンサーに引っかかるらしいのだ。


 笑われた人間に何らかの利益が発生する――出世する、積年の片思いが成就する、諦めていた毛髪が生えてくる、ということであれば自分とて笑わないでもないのだが、たいていはこの逆、すれ違うあらゆる生き物から根こそぎ嫌われる、ウン十万もしたヅラがとっくにバレていたのを知る、ということが多い。


 自分は悲惨な人間をみるのが嫌だ。これは自分も元々しみったれているものだから、ややもすれば生きることに参ってサンポールとドメストを混ぜようとしてしまうからである。しかし死にたくはないからできればこれ以上しみったれた気分にはなりたくないのだ、と書いていてこの段落のしみったれたという言葉の多さにしみったれた気分になってきた。あかん、またしみったれたって書いてもた。


 ともかく、無償の笑いについて自分があかんなあと思うのは「笑わせる人間」と「笑われる人間」が完全分業制度になっていることだ。自分などは常に笑われる人間なのだが、だから労わらんかいワレ、ということではない。


 売り物の笑いを作る人々は笑わせるのも笑われるのも自分である。しかし漫才師など二人組みで行動する場合はこの範疇ではなく、これを専門用語でボケ・ツッコミという。


 読者の方はあまりご存じないでしょうから一応説明させていただきますと、ボケ、これは文字通り老人性痴呆のことです。糞尿はタレながし、五分前に食った飯の内容も覚えていない、そのくせ嫁にいびられたことは忘れない、など様々な症状がでるわけですが、そこにツッコミ、これも文字通り突っ込むことですね。「難出耶念」などと禍々しい呪詛をさけび、刃物を突っ込む。主に胸元、頭部が多いそうですね。これは明らかな虐待、犯罪です。なんたる非道――漫才というのはこのように狂気に満ち満ちた芸であることが理解いただけるかと思う。


 こんなものを見てアハハ、と笑う我々はどうかしているのではないだろうか。本来人道的に保護されるべき病人がこのような扱いを受けているのを見過ごすべきではないし、子供たちがそこから学習して「笑わせる人間」「笑われる人間」を作ってもいいのだと考え、さらにはツッコミといって殺し合うことにもなりかねない。なんて怖いことだ。


 昨今の世の中は凶悪な事件のたびにそれをゲームやアニメのせいにする風潮があるが、自分は笑いを規制すべきだと思う。そうすれば自分のような人間が笑いについて頭を悩ませることはないし、人々は怒ってばかりいてそのうち殺し合いをはじめ、地球はやがて人類の願った平和そのものになるだろう。いいことづくめである。


 こんなことを真剣に書いている自分が、笑い、である。莞爾。


(完)

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