3−4
美術室のドアの隙間からそっと覗き込むと、峰岡はこの間と全く同じ席で作業をしていた。俺が覗いていることに気づいていないようだ。
峰岡は、机のそばに立ち、机の上に置かれた紙の上に、手に持った筆からインクをボタボタと垂らした。ランダムに垂らしたインクの乗った紙を半分に折って開くと、線対称な模様が現れる。彼女は、その模様を無表情で眺めた後、乾燥させるためなのか、別の机の上に置いた。部屋の中に入ってみると、そうやって描かれた不気味な絵が峰岡の周りに散乱していることがわかった。
「ロールシャッハ・テストですよ」
俺が絵を見ていることに気づいた峰岡が声をかけてきた。
「ロールシャッハ・テスト?」
「スイスの精神科医、ヘルマン・ロールシャッハの作った心理テストです。被験者に、こうやって無秩序に生み出されたインクのシミを見せて、これが何に見えるのかを答えさせるんです」
「へぇ」
「この質問に決まった答えはありません。ですが被験者が形に注目するのか、色に注目するのかとか、そういったことを分析していくそうです。その答えの中に、普通に診察をしたのではわからない、その人の思考や精神障害が現れる、と信じられているんです」
「じゃあ、これが何に見えるか俺が答えると、俺の心理が分かるのか」
俺は絵の中から、もう乾いているように見えた1枚を取り上げて眺めた。濃い青と黄色のインクが重なって、美しいグラデーションを織りなしている。蝶、いや、鳥かなこれは。
「いえ、実際のロールシャッハ・テストには、ロールシャッハ・カードという専門の業者さんが売っている既製のものを使うはずです。昨日、ロールシャッハ・テストに関する文献を読んだんですけど、同じ方法で絵を描いてみたら何か面白いものができるかもと思ってやってみたんです」
「何か面白いものができたの」
「無秩序に生み出された模様というのは面白いですね。描こうと思って作れるものではないですし。あと、出来上がった絵が何に見えるか、鑑賞者に委ねられるという点も面白いです。鑑賞者によって無数の解答が存在するということですね」
何が峰岡の琴線に触れたのかさっぱりわからなかったが、黙って峰岡の話を聞きながら絵を見ていると、彼女はおずおずと言い出した。
「私の話はどうでもいいですね。今日はどのようなご用向きで」
「用がないと来ちゃダメだった?」
「え……いえ、別に、何もなくても来てもらってもいいんですけど……」
俺が聞き返すと、峰岡は顔を赤らめた。どうして顔を赤らめるんだ。
「私と木下くんの関係性だと、用があるからここに来たのかと思ったんですが」
「まあそうだな……用がある、っていうか、ちょっと手伝ってほしいことがあって」
「手伝い、ですか? 私にできることであれば協力しますよ」
「ああ、恩に着る。この間、ゴミ拾いをしたときに話した、俺の小学校の時からの友達に、ちょっと面倒事が起こってな」
「大畑美月さんのことですか、古村修二くんのことですか」
「……よくあの1回で覚えていたな」
「記憶力には自信があるんです」
そう言って峰岡は「えへん」と言わんばかりに左手を胸に当てた。記憶力に加えて集中力も必要な気がする。俺だって覚えようと思えば覚えられるかもしれないが、出会って2回目の知り合いとの世間話なんて集中して聞かないだろう。
「その古村修二についてだ。その、あんまり話すのが上手くないから、わかりにくいかもしれないけど――」
俺はそう前置きした上で、この24時間強で起きたこと全てを話した。昨日の昼休みに、修二が次の大会のスタメンに選ばれていたにもかかわらず、サッカー部内のいじめに関与した首謀者として責任をとって辞めたらしいという噂を城崎から聞いたこと。放課後、家の近くでたまたま修二と出会ったので噂について何も知らない体で聞いてみたが、彼自身もその噂通りの境遇にあると供述し、それ以上詮索することを拒んだこと。今朝、顧問の池川に尋ねてみたが、嫌そうに適当な返事をされたこと。放課後、部員の小林にも尋ねてみたが、噂通りの答えが返ってきたこと。だいぶたどたどしい説明だったと思うが、峰岡は作業を止めて、口元に手をあてて黙って聞いていた。
「――それで、現時点で、聞いた話をまとめたのがこれなんだ」
そう言って、城崎、修二、池川、小林の言っていたことをまとめたルーズリーフを手渡した。峰岡はそれを両手で掴んで、すっと目を細めて読み始めた。走り書きで書いた字だからまともに読めるか心配だったが、そうでもないようだ。
「俺は、情報を集めるのは得意なんだけど……」
「私のこともストーキングしてましたしね」
「それは謝ったじゃないか」
「ちょっとしたいじわるです。話を割ってすいません、続きを」
峰岡は俺の渡したメモから目を離さないままそう言って、フフっと笑い声を漏らした。峰岡、思ったよりいい性格してやがるな。俺は嫌味を込めて言い直した。
「俺は、陰湿で姑息なストーカーのようにコソコソと情報を集めるのは得意なんだけど、その集めた情報をまとめたり、そこから何かを考えたりするのがどうもダメなんだ。そこで峰岡の力を借りたい」
「そこまでは言ってないのに……うーん、とりあえず、木下くんが私にお願いしたいことはわかりました。お手伝いします。でも、わたしも考えるのが得意なわけではないですよ」
「いやいや、ご謙遜を。俺の筆箱の位置の特定も、俺のストーキング行為の特定も、どちらも明晰な推理だったと思うぜ。推理小説に出てくる探偵かと思った」
「得意という自負はないですし、探偵だという自覚もないんですが――ただ、何かを考えるということを尊び、その過程を愛しているだけです」
峰岡はやはり俺のメモから目線を離さず、独り言のようにそういった。「愛」ときたか。妙に芝居がかったセリフだ。峰岡、恋人になると愛情が重くなりそうなタイプだな……ま、俺には関係ないから、心配する話でもないけどな。俺がフッとため息をつくと、峰岡はようやくメモから目線を上げた。
「そうですね。まず、木下くんから聞いていた古村くんの人物像から考えると、疑ってしまいたくなるような話です」
「そうだろ。俺が一番気になってるのはそこなんだよ!」
俺の内心を言い当てたような発言に思わず大声が出てしまい、峰岡は少しびくりとした。「ごめん」と一言謝って言葉を続ける。
「人間は変わる。だから修二も中学生になって変わってしまったのかもしれない。でも、俺が知っている限り、修二は仲間思いで人のためなら平気で自分を犠牲にするような奴で、いくら変わったとしても、少なくともいじめに与するような人間だとは思えない。修二はいじめには関わっていなくて、周囲の人間がそういうことにしてるんじゃないか。仮に『いじめ』と呼べる行動をとったのが本当だったとしても、何か納得できるような理由があったんじゃないか――もしそうなら、それを知りたい」
「木下くんの動機はわかりました。4人の供述も把握しました。ひとまずこの時点でわかることをいったん整理してみましょう。4つ確認しておきたいことがあります」
峰岡はそう言って、俺の渡したルーズリーフをヒラリと振ってから、机の上においた。そして近くにあった椅子を引き、そこに姿勢を正して座った。話が長くなる合図だと思って、俺も近くにあった机に腰掛けた。
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