誘惑
夏休みのとある日の夕方、マンションの廊下から足音が聞こえて、その音が隣の部屋のドアの前で止まった。航平が合宿から帰って来たらしい。剣道着の入ったカバンが揺れる音も聞こえたので間違いないだろう。航平が鍵を開けて家に入ったところで、私もビニール袋とカバンを持って家を出た。目的地はすぐ横である。
インターホンを押すと、たった今帰って来たばかりで制服を着たままの航平が迎えてくれた。
「やっほー航平、ご飯作りに来たよ」
「え、俺ん家で作るの?」
「ちょっと色々ありまして、上がってもいい?」
「ああ、晩御飯ありがとうな」
「いつものことでしょ」
夕飯の材料の詰まったビニール袋を見せながら、航平の家に上がる。
今日は航平の両親は共に出張中であり、彼は一人なのだ。合宿に行く前に約束した通り私が夕食を作るのだが、航平は私の家で食べると思っていたのだろう。
「実は航平に頼みがあってさ」
「なんだ?」
「お風呂貸して欲しいんだよね、今日だけでいいから」
「は?」
「私の家のお風呂が壊れてさ、明日には修理が来るんだけど……」
「……そういうことか、別にいいぞ」
「ありがとう」
私の家と同じ間取りの廊下を歩いてキッチンに向かう。シンクの横にビニール袋を置いて、手を洗って早速料理に取りかかる。
「私ごはん作ってるから、先にお風呂入ってて」
「ああ、わかった」
さて、ここまでは計画通りだ。まずは料理だけでもやってしまおうか、航平がお風呂を上がって来る前に。今日のメニューはシチューである。
シチューがほとんど完成して、あとは煮込みながらかき混ぜるだけというあたりで航平がお風呂から出てきた。
「ああ、さっぱりした」
「お疲れ、合宿はどうだったの?」
「先輩らにめっちゃしごかれた、まじで死ぬかと思ったわ」
運動部の合宿はキツイと聞くが、航平の剣道もそうだったらしい。口ではしんどかったと文句を言いながらも、航平はどこか楽しげな様子であった。ドライヤーで髪を乾かし終えた航平に話しかける。
「航平、私お風呂借りるから、お鍋かき混ぜといてくれない?」
「了解、ちなみにメニューは?」
「お肉多めのホワイトシチューです」
「やったぜ」
嬉しそうに笑う航平にお玉を渡してから脱衣場に向かった。
「覗いちゃだめだよ」
「そんなことしねぇよ」
自分のシャンプーとリンスを持ってきたので、それを使ってお風呂に入った。ちなみに私の家と全く同じ造りなので、新鮮味など何もなかったが、さっきまでお風呂にいた航平の匂いのせいで心拍数が上がってしまった。
入念に体を洗ってから素早くお風呂から上がり、ドライヤーを済ませてキッチンに行くと航平はきちんとお鍋をかき混ぜてくれていた。
「あがったよ」
「おう」
「もう出来てるね、食べようか」
そう言いながらシチュー用の大皿を取り出して鍋の横に置く。航平からお玉を返してもらってお皿にシチューを入れる。航平がそれを食卓まで運んで夕食が開始された。
「「いただきます」」
航平のお皿にはかなり多めにお肉を盛ったつもりだったが、すぐにそれらは無くなってしまった。合宿帰りの高校生の食欲はすごいな。ホワイトソースをちびちび飲んでいる私とは大違いだ。
私のシチューが半分無くなったあたりで、航平はおかわりをした。私は途中でバジルを追加して、ゆっくりと味わいながら食べていく。まあ、味わうというほど大した味でもないのだが。
結局、作ったシチューのほとんどは航平の胃袋の中に入ってしまった。
食事が終わったあと、持ってきた映画のBlu-rayを取り出す。私が一緒に見ようと誘うと、航平はそれを了承した。
「部屋暗くしていい?」
「そうするか」
航平の家のテレビは大型の最新型である。せっかくなので映画館気分を味わうために部屋の明かりを落とした。カーテンの外から漏れてくる町の灯りだけが、今この部屋を照らしている。
映画が始まって、私も航平もソファーに座って二人仲良くそれを見ていた。去年公開の洋画で、ジャンルはアクション物。ちなみに、私はこれをすでに見ている。劇場で陽菜と一緒に見たことがあるのだ。では、なぜこれを選んだのかと言えば、要は都合がよかったからだ。
映画が中盤に差し掛かったあたりで、白人の俳優が二人でベッドに入るシーンが映し出される。暗く静かな部屋に、抱き合ってキスをする二人の声が響く。英語で愛を囁きあう役者を前にして、私は隣に座る航平に身を寄せた。
一瞬ビクリとした航平だったが、すぐに慣れたらしい。その反応にやや物足りなさを感じつつも、今度は彼の肩に頭をのせる。また、航平がビクリと反応する。それがおもしろくって、航平の腕を取って自分の脇に絡めとる。指先を弄んでいると、航平の手は、恐る恐るといった感じで私の太股に触れて撫でてきた。お風呂上がりの寝間着で、露出した私の太股が、航平の節くれだった指に撫で回される。その感触がどこか心地よくて、そのままにしていると、航平がとうとう声をかけてきた。
「……なあ」
「うん」
言葉だけでとれば意味はわからないが、声のトーンや喋り方で何を言いたいかわかる。航平の腕が私の肩に回されて、ゆっくりとソファーの上に押し倒された。まさかここで始めるつもりなのかと思って、航平の手を取ってソファーから降りる。
「ここはさすがに」
「わかった」
あらかじめ用意してあった避妊具の箱を見せながら、航平の部屋に向かった。廊下を歩いているとき、後ろからついてくる航平が急かすように足を動かしているのか面白くて、わざとゆっくり歩いてやった。
部屋に入って、航平がドアを閉めた。二人きりの密室、ここまで来れば逃げることはできない、私も、そして航平も。
自然に抱き合って、私たちはベッドの上に倒れこんだ。初めての夜が始まる。
結論から言えば、すべて私の計画通りに終わった。痛みと快楽の熱で頭をかき混ぜられながら、私は彼に身を委ねた。自分から誘っておきながらそれを委ねるというのも、傲慢な感じがして心地よい。
剣道部の合宿が終わって、帰って来てからも彼に一人になる隙を与えなかった。当然溜まっているだろうし、それを見込んで誘いをかけた。当然、行為の果てに、先に力尽きたのは私の方だった。意識だけが残って動かない体を、しばらく航平に貪られ続けた。自分の存在が喰われ、蝕まれる感覚。そんな破滅的な快楽に酔いしれる自分を客観視しては、またそれに酔う。
どろどろに煮込まれた自分の脳が詰まった頭蓋を、航平の匂いが染み付いたシーツに沈み混ませ、私は意識を落としたのだった。
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