第15話 新たな夏物語 ~流転5~
「大丈夫か、お前」
すっかり窶れてしまった貴裕を不安げに見つめ、敦は顔を覗き込む。
「ああ、少し寝不足なだけだよ」
あれからと言うもの、雅裕はピリピリとして手がつけられなくなってしまった。
ちょっとした事で怒りだすし、日がな一日悪夢に魘されて絶叫を上げる。
雅裕自身が一番辛いのだ。
それを理解する貴裕は我慢も出来るが、何も知らない万由や子供らはそうはいかない。
情緒不安定な兄を守るため、あれやこれやと世話を焼き、貴裕には気が休まる時がなかった。
あまりに憔悴する二人を見かねた万由が外出をすすめてくれ、少しだけと、貴裕は敦を呼び出し、人心地ついていた。
「ちょっとね。家族が具合悪くて」
「看病か? 大変だよな。うちにも、婆ちゃんいてさ。あんまり体調が良くなくて.....」
他愛ない雑談に相槌を打ち、貴裕は安堵に胸を撫で下ろす。
しかし頭の中は雅裕の事で一杯だった。
一体どうしたら良いのだろう。まさか、あの記憶が甦ってしまうとは。
神様がいるなら残酷過ぎる。せっかく幸せになれた兄を、また奈落に突き落とすなど酷いではないか。
自分が何のためにここまで頑張ってきたのか。
結局、どうあっても頭から離れないアレコレに振り回され、貴裕は適当なところで敦と別れて自宅へ急いだ。
今の雅裕を万由や子供らだけと置いてはおけない。
雅裕は情緒不安定になってから、特に小太郎へ対する当たりが激しいのだ。
..........俺の子供だからだろうな。
何となくだが雅裕が貴裕を邪険にしているのにも気づいていた。
今さらだが、やはり万由を共有などするべきではなかった。
雅裕から憎まれるとすれば、理由はそれしか思い当たらない。
どれもが今更な理由である。無慈悲かもしれないが雅裕本人が乗り越える他ない事情だ。
二度と万由に触れるなというなら、触れない。雅裕が望むようにしよう。
だが、既に生まれてしまった子供に罪はないし、どうにもならないではないか。
いざとなれば、小太郎を連れて家を出るしかないだろう。
万由を説得するのは骨だが、虐待されるのをみすみす見逃す訳にもいかない。
頭がオーバーヒートしそうだった。
懊悩煩悶する貴裕を見送り、公園に立ち寄った敦は、芝生のある木陰に座り、貴裕の事を思い出す。
不思議な少年だった。何故か懐かしいような、怖いような、敦の胸をムズムズさせる貴裕。
付き合ってみれば良い奴で、すぐに打ち解け仲良くなった。
なぜ、最初のころ怖いなんて思っていたのだろう。敦には皆目見当がつかない。
その貴裕の様子が、最近あからさまにおかしい。
何か起きているのだろうことは分かるのだが、踏み込んでも良いものか、逡巡する敦。
「人様の家の事をだものなあ。せめて相談してもらえたらなぁ」
益体もない事を考えて不貞腐れる敦の背後から、誰かが声をかけた。
「.....敦?」
低く耳慣れた声音。
「へ?」
振り返った敦の脇腹が爆発し、目の奥に火花が散る。
声もなく蹲った敦の眼に映ったのは、貴裕に良く似た青年。
「.....お前も。どうせ裏切るんだよな?」
は? 何の事だ?
それを最後に敦は意識を手放した。
雅裕の手に握られていたのはスタンガン。
ニタリと嗤うその顔は壊れた狂気を孕み、貴裕の恐れていた事態が現実となりつつあった。
「兄貴がいない?」
「ええ。タカちゃんが出掛けてすぐよ? 散歩してくるって出ていったわ」
散歩? 今の兄貴が?
変だ。俺の留守を狙って出掛けたようにしか見えない。
首を傾げる貴裕の携帯にメールが届いた。差出人は雅裕。
何事かと慌ててスマホを確認する貴裕。届いたメールにはファイルが添付されており、何気に開いた彼は、驚愕に眼を見開いた。
そこには敦が撮されていて、床に転がる姿は意識を失っているように見える。
さらには背景。檻の鉄格子ごしに撮された写真の背景に貴裕は見覚えがあった。
忘れようったって忘れられない。雅裕が壊された地下施設。そこにある大きな檻の写真である。
「なんで.....っ? 何してんだよ、兄貴っ!!」
愕然と立ち竦む貴裕を、呆然と見上げる万由。
その足元に立つ双子が、にんまりと嗤う。
こうして因縁の廃病院へ向かう貴裕。
全ての原点である忌々しい建物は未だに健在で、青木達にも忘れ去られてソコにある。
「どうしちまったんだよ、兄さん?」
まさか敦に手を出されるとは思いもせず、貴裕は車を飛ばす。
かつて、過去である未来に千歳が駆け下りた坂道を走り、貴裕は林を抜けて件の廃病院前に立った。
「兄さん? 居るのか?」
呼び掛けてみるが返事はない。写真から察するに地下にいるのだろうか。
長く住んでいた場所だ。以前のの雅裕にとっては、トラウマも何もなく、ただ皆で共同生活していただけの場所。
ただし記憶を取り戻した今となっては、トラウマばりばりな場所のはずである。
それは貴裕にとっても同じ事。兄とともに死んだ場所だ。トラウマどころの話ではない。ある意味、兄弟の墓標の建物である。
「..........勘弁してくれよ」
ゴクリと固唾を呑み、貴裕は覚悟を決めると配管扉を開けて、地下へと続く梯子に足をかけた。
霊安直室から慣れた仕種で縄梯子を下りて、何時もの細長い部屋を抜けると、そこには灯りがついている。
あれから全く足を運んでいなかったが、自家発電は健在なようだった。
敦がいなかったから、他は直せなかったんだよな。
前回と同じく、修理に業者を呼ぶわけにもいかず、それでも監禁されていた訳ではなかったので、こっそり皆で銭湯に通ったりしてたっけな。
ふっと楽しかった思い出が頭をもたげた。
せっかく新しい記憶で上書き出来たのに。
ズカズカ歩く貴裕は、正面にある檻の中に敦を見つけ、思わず駆け寄り、空いている入り口から中に入った。
「敦っ?! 大丈夫かっ、おいっ?!」
奥に転がされたままな敦を抱き上げ、激しく揺する貴裕の耳に甲高い金属音が聞こえる。
がしゃんっと閉じられた扉の向こうには雅裕。
太い鎖を鉄格子に巻き付けて大きな南京錠をかけ、虚ろな三白眼で、じっと貴裕を見据えていた。
「兄さん?」
「..........これで誰も僕から万由を奪えない」
いったい何を言って?
「どうしたのさ? 万由ちゃんなら兄さんのモノだよ? 俺は、もう二度と触れないから」
「.....今回はお前だった。前は敦で。なんで皆僕から万由を奪うんだよっ!!」
絞り出すような雅裕の言葉を聞いて、貴裕はハッと敦を見る。
どうやら雅裕は今世と前世の記憶がゴッチャになっているようだった。
「敦は関係ないだろうっ? 今回は万由ちゃんと知り合ってすらいないんだっ! 俺が邪魔なら消えるからっ! だから、敦だけは..........」
「煩いっ!!」
低く穿つような恫喝。
これにも貴裕は覚えがあった。
「煩い、煩い、煩い..........」
どろりと濁った雅裕の瞳。
まさか.....?
「.....兄さん? 俺が分かる?」
「...............たかひろ?」
ぞわりと貴裕は背筋を震わせた。
ああ.......... なんてこった。
ここは雅裕を狂わせるのか。どうやっても逃れられないのか。
ふっと意識を取り戻したかのように、雅裕は軽く頭を振った。
「お前がいなくなれば、万由は僕のモノなんだ。憎んでくれて構わない。僕は万由が欲しいんだ」
まだ正気か? まだ間に合うか?
雅裕の瞳からは、さきほどの狂気に満ちた光が消えている。
「分かったよ。好きにしたら良い」
ゆったりと微笑む貴裕に、雅裕の瞳が大きく揺れた。
「食べ物は運ぶ。許してくれとは言わないが.......... ごめん」
ふらふらと立ち去ろうとする雅裕に、貴裕は穏やかな声で呼び掛ける。
「せめて敦は出してやれないか?」
ぴくっと耳を震わせ、雅裕はギギギっとぎこちなく振り返った。
「そいつも同じだ。万由を奪うに違いない」
前世で万由と恋人同士だった敦。それも雅裕は思い出してしまったのだろう。
「そう。分かったよ」
すっと引き下がった貴裕を生々しい眼球でギロリと睨み、雅裕は奥へと消えていく。
その姿が見えなくなってから、貴裕は肺の中で淀みきった空気を全部吐き出した。
あの雰囲気はヤバい。壊れた時の雅裕と同じだった。
いったい、何でこんなことに..........っ!
敦を抱き締めたまま、貴裕は声もなく泣いていた。
その周囲に揺らめく白い影。
新たに復活した影は貴裕の嘆きをすすり、ニタリと歪に嗤った。
風前の灯な二人の命運を嘲笑い、止まっていた夏物が佳境を迎えつつある。
如何に道に抗おうと、迎える未来は変わらない。
「..........っつてぇ」
「気がついたか?」
貴裕は敦をベッドに寝かせて手当てをする。
有り合わせだが、以前の共同生活の名残でタオルや色々と檻の中には残されていた。
それらを使い、脇腹の火傷に濡れタオルを当てて、貴裕はバツが悪そうに敦から眼を逸らす。
「.....あ? ここ、どこ? 俺、どうなったの?」
「覚えてないのか?」
「あ~? なんか、名前呼ばれて振り返ったら? 腹が爆発して? 気を失ったみたいだな」
「.....そうか」
雅裕がやったのだろう。
農筋持ちの兄は、見掛けは優男に見えるが、その実、細マッチョである。
五十キロもの野菜籠をひょいひょい投げられる雅裕にとって、男一人抱えて車で運ぶくらいは朝飯前だ。
黙りで俯く貴裕を怪訝そうに見つめ、敦は軋む脇腹と格闘しつつ身体を起こした。
「で、お前は? お前も拐われたクチか?」
貴裕に説明しているうちに、自分がどのような立場か理解したのだろう。敦は心配そうな顔で貴裕を見た。
説明の仕様がない。
「俺のせいだ。.....ごめん」
「はあ?」
大仰に首を傾げる敦。
これは、もう話すしかない。
貴裕は戦慄く唇を開き、重い口調で前世からの話を敦に聞かせた。
「..........それを信じろと?」
「信じなくても良い。信じられないだろうし。ただ、俺の兄貴はソレを基準に動いている。こうして監禁しているのが、その証拠だ」
敦は檻の中を見渡して、溜め息をつく。たしかに、この現状は夢じゃない。
さらにら言えば、何故に雅裕の声に聞き覚えがあったのか。最初のころの貴裕に恐怖を覚えたのか。
その疑問に答えを貰ったような気分でもあった。
「八つ当たりと言うか、それって、お前は悪くないだろう? その話が本当なら、感謝されこそすれ、こんな目に合う理由はないじゃないか」
初めて受ける正当な評価。
「お前は頑張ったんじゃん? なんで、兄貴とやらは、それを見てくれないんだよ。記憶が戻ったなら分かるはずだろう? どんだけ貴裕が努力したのか」
ああ、お前は何処にいても敦なんだなぁ。
真っ当な事ばかりで鼻についた男だが、その初志貫徹する御人好しさ加減には一目おいていた貴裕である。
あの時も雅裕と貴裕は敦に救われた。いっそ清々しいほどの俺様な御人好しさに救われたのだ。
そして今も。
「まあ、深く考えるな。考えたって、分からんものは分からん。なっ?」
にかっと笑う敦に頷き、貴裕は誓う。
敦だけは必ず逃がしてみせると。
兄と刺し違えても敦は助けてみせよう。
もう、それしかないかもしれない。
雅裕が壊れてしまえば惨劇が繰り返されるはずだ。自分が傍にあるなら手助けも出来るが、今回は貴裕自身が第一被害者となる確率が高い。
そうなれば、敦はおろか、万由や子供らにも危険が及ぶ。
それは、本来の雅裕が望むモノでもないだろう。
天井を見上げて貴裕は運命を呪った。
いったい何のために流転したのか分からない。結局、未来は確定していたのだろうか。
どんなに抗っても逃げられはしないのだろうか。
感謝して損したぜ、神様よぉ。
心の中で盛大に神様を毒づき、貴裕は覚悟を決める。
その悲壮な決意すら美味そうにすする白い影らに踊らされ、兄弟は最悪に舵を取った。
記憶を取り戻しても雅裕は知らない。
貴裕の得意な得物がメスである事を。そしてソレを常に携帯している事も。
哀しげに胸元を押さえ、ソコに仕込まれたメスを撫でる貴裕。
その悲哀に充ちた背中を見つめ、何となく嫌な予感を覚える敦。
誰も知らない結末は、数日後にいきなり訪れる。
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