第8話 ~邂逅~
「追ってっ、来ないっ?」
千歳は全速力で山道を駆け下りながら、微かな安堵の息をつく。
だがそれは新たな焦燥を生み、千歳に後の無い緊迫感をひしひしと訴えた。
明らかに逃げられたら不味いはずのこちらに追っ手がないと言うことは、あちらの万由達が危険だということである。
しかも五月と彼等の会話から、どうやら行方不明になった被害者らは生きているようだった。
つまり今の千歳の肩には、万由や五月のみならず、行方不明となった被害者らの命も全て乗っている事となる。
千歳はいつもの柔らかな笑みではなく、追い詰められた兎のような緊張感を帯びた光を眼に浮かべ、あらん限りの力を使い全力疾走中。
彼女は、脱兎もかくやの勢いで坂を走り抜けていく。
脚にまとわりつく鬱陶しいスカートを脱ぎ捨て、下着からスラリと伸びた健脚のあまりの速さに、視界へ残るのは残像のみ。
坂を下る惰性を借りて、時折飛ぶように走る女子高生。
有りうべからぬそのスピードは、万一転倒でもすればただでは済まない。硬いアスファルトに激突して、良くて一生ものの挫傷、悪ければ骨折。
だがそんな悲惨な未来は過りもせず、彼女の頭の中は、残してきた命達の事だけで一杯だった。
闇夜に疾走する白い少女。
端から見たら、高速道路に出没するという、彼の有名な何とか婆ちゃんを彷彿とさせる姿で、千歳は徒歩一時間ほどの山道を無言で駆け抜けていく。
彼女が、一心不乱に駆け抜け、新たな会談話を生み出していたかもしれない頃。
衂れた廃病院地下では、敦が復活していた。
まだ指先に震えは残るものの、何とか身体を起こし、彼は檻の中にいる面々と顔を見合わせる。
「何が起きたのか分かる奴いるか?」
「俺は分からん。お前が運ばれる寸前まで寝てた」
背中をボリボリと掻きつつ、角刈り親父は情けない顔をした。
虫だらけの寝床に未だ慣れないらしく、全身を喰われて痒いのだとか。
うががっと呻き、七転八倒する親父を無視して、他の者が軽く挙手する。
「一時、貴裕さんらの声がしました。その後からです。白い幽霊みたいなのが床から湧き始めて...... その.....」
言葉に詰まる彼は、チラリと視線を泳がせた。その泳がせた先にある物体に、敦の顔が凍りつく。
そこには干からびた人間が転がっていた。
まるでミイラのように痩せ細った姿。全身、骨と皮でムンクのような表情を浮かべ、静かに横たわっている。
こんな死体は昨日まで無かったはずだ。いったい、何処から?
固唾を呑んで見つめる敦の視界の中で、ふいにミイラの眼が動いた。
ギョロリと眼窟でクルクル動く不気味な眼球。
「ひっ??」
思わず仰け反る敦。だが、よくよく見てみると、そのミイラの眼球は忙しなく動き、この身体の何処にあるのか分からない水分が、その眦からポツリポツリと落ちている。
「まさか.....? 生きてる?」
「生きてます。異常事態を察知した雅裕さんが檻の鍵を開けた途端に逃げ出して..... あっという間でした。白い幽霊みたいなのに集られたと思ったら、この姿に」
敦は茫然と眼を見開いたまま、額を手で押さえた。
雅裕が来てくれなかったら、俺もこんなんになってたって事か。
見掛けは完全にミイラな男。
これで生きてるとか、冗談にしか思えない。どんな最先端技術をもってしても彼は救えないだろう。
それは火を見るより明らかである。
事切れるまで、このままなのか?
悲痛な眼差しで見つめる敦の視界で、件のミイラが物言いたげに、乾いて固まった唇を戦慄かせた。
一瞬の戦慄。
敦には言葉を発せぬミイラが求めるモノが伝わった気がする。
まさか。
そう思いつつも、敦は笑う膝に苦戦しながら立ち上がり、部屋の隅に置かれたシャベルを手にした。
そして窺うように横たわるミイラの眼を確認する。
ミイラの眼が煌めき、頷いた気がした。
やっぱりか。
敦は覚悟を決め、おもむろにシャベルを振りかぶった。その意図を正しく察し、周囲の人間達が、ひゅっと喉を鳴らす。
「何する気だ、おまえっ!」
噛みつくように怒鳴る角刈り親父が敦を止めようと飛び掛かった。
このシャベルに耳を吹っ飛ばされた親父の形相は、恐怖一色に染まっている。
それを苦し気に見下ろし、噛み締めるように敦は呟いた。
「殺されたがってるんだよ、こいつ。痛いのか苦しいのか分からないけど、死にたいんだよ。なあ?」
泣き笑いみたいに顔をクシャクシャにして、敦は弱々しく微笑む。
それに同意するかのように、真っ直ぐ敦を見つめるミイラ。
二人の間に流れるまことしやかな空気が、敦の言葉を肯定していた。
かすられた程度ではあるが、白い影らから暖かさを奪われた事のある敦だからこそ分かるのだ。
あの無慈悲なくらい冷たく切れるような寒さを。あれが限界まで極まり、奪われ尽くしたならば、どれ程想像を絶する苦痛だろうか。
「今、楽にしてやるから。またな?」
そう言うと、敦は渾身の力でミイラとなった男の首にシャベルを叩きつけた。
乾いて脆くなっていた彼の首は、事も無げに撥ね飛ばされ、その瞳から光が失せる。
壁に当たり、足元まで転がってきたミイラの首を拾い、敦は何とも言い難い表情で眉を寄せた。
そのミイラの口角は微かに上がっていたのだ。
またな。
この異常事態。遅かれ早かれ檻の中の連中も、この男の後を追うことになるだろう。
敦はミイラの遺体を抱え、檻の奥へと歩いていく。
それを見咎め、角刈り親父が敦に声をかけた。如何にも怪訝そうな声音で。
「おまえ、何してるんだ?」
「え?」
言われて敦は己の手を見る。そして愕然とした。
彼は無意識に、ミイラの遺体を用足しの穴に投げ込もうとしていたのだ。
はっとして穴から離れる敦。
俺は何をしようとした??
長く地下で暮らしてきた敦達は、無意識下で怨霊らの影響を受けていた。
檻の中で苦しむ彼等の嘆きを啜り、さらに力をつけた白い影達。
まるで麻薬のように深層下で敦らを蝕み、その心から少しずつ暖かいものを削り取る。
同調しつつある意識に操られ、敦らは白い影達の望む行動をとってしまう。
それを知らぬ敦は己の行動に戦慄した。
おかしい。俺はやっぱり狂っているんじゃないのか?
茫然と敦がミイラを見つめていた頃。
地下への縄梯子を、静かに降りてくる者がいた。
「何よ、これ」
むわっと湿った暖かさの地下区域。
空調が動き、明かりが灯るそこを、万由は不思議そうに見つめている。
恐る恐る忍び足で歩き、そっと幾つかの部屋を通り抜け、彼女が進んだ先は広い栽培区画。
一面に生い茂る青々とした植物を見上げ、万由は思わずポカンと口を開けた。
「何だろう、これ。ケナフとか?」
新しい紙材として注目されている植物に似てる気がする。
だが、一面全てがその植物なのは気味が悪い。しかも何か鼻をつく変な匂いも漂っていた。
しばし前に三方に分かれて逃げ出した万由達は、千歳が麓にたどり着く事に望みをかけ、身を潜めようと駆け回ったのだ。
が、病院の内部などほぼ初見な万由達と、既に把握済みな男らとでは分が悪く、ジリジリと追い詰められ、万由は地下に。五月は外周にと逃げ出した。
再び地下にとは、さすがの貴裕らも予想はしなかったようで、建物外にいる五月も、万由を案じて逃げ出さずに木立の陰で潜んでいる。
万由は隠れる事も忘れてフラフラと生い茂る植物を見上げながら奥へと進んだ。
すると開けた場所で、大きな檻の柵が眼に入る。途端、万由の眼が限界まで見開いた。
「敦.....?」
呼ばれて振り返った敦も、眼を見開いて固まる。だがその唇は、懐かしい名前を無意識に呟いた。
「え? 万由?」
敦の呟きが耳に届くやいなや、万由は檻の前へ駆け出した。
信じられないモノを見る眼差しで、柵の中へ必死に手を伸ばす。
それに応じて、敦も柵へ駆け寄った。
「敦っ、生きてたっ、生きてる? 大丈夫っ? 痩せた? 痩せたよね?」
御互いに柵へ張り付き、両手を伸ばして顔や頭を撫で回す二人は、複雑そうな視線を絡ませて、柵越しに抱きしめ合った。
温もりを確認するかのように腕を回す二人。
「心配した?」
「したわよっ、当たり前じゃないっ!」
即答か。
普段は至極冷静で、心の動きが全く読めない気難しい彼女。
その彼女が、自分の無事を喜び泣いていた。嬉しい事この上ない敦である。
しかし、変だ。
敦は久々の可愛い万由との再会を喜びつつも、周囲の変化を見逃さない。
万由が現れてから、白い影らが一斉に消えたのだ。
まるで万由に怯えるかのように、一気に何処かへ消えてしまった。
それを訝りつつも、敦は万由に逃げるよう示唆する。
ここは魑魅魍魎の蠢く巣窟だ。味方になってくれそうなのは雅裕のみ。しかし、その雅裕こそが、万由にとって最大の敵になるだろう事は想像に容易い。だから、とにかくここから逃がしたい。
敦の脳裏に、泣き叫ぶ隣室の少女の悲鳴が甦る。
これは敦のエゴだ。絶対に万由と雅裕を会わせてはならない。
悲痛な眼差しで万由を見つめ、敦はその固めな癖っ毛を撫でた。
「おまえが生きて逃げ出してくれれば、俺らも助かるんだ。頼むから誰かに知らせてくれ。ここに俺達がいると」
「嫌よっ、一緒に逃げようっ!」
一年前より明らかに痩せ細り、眼窟から眼が飛び出し気味な敦の顔。
本人は気づいていないのだろうが、万由には丸分かりである。
見掛けも薄汚れ、その瞳に浮かぶ光は少し虚ろで、万由を映していない。
こんなとこに置いてはいけないと、万由は施錠された太い鎖をガチャガチャと揺すっていた。
「何よ、これっ、開きなさいよっ! 何で......っ」
眼に涙を浮かべて、鎖と格闘する少女。
それを微笑ましく見つめ、敦はその手をそっと止めた。
「ありがとうな。頼むから逃げてくれ。絶対に奴等に捕まらないでくれ。そうすれば、俺達も助かるんだ。逃げ延びてくれ、万由」
「「「「え?」」」」
聞き覚えのある名前に、周囲から揃って呟かれる異口同音。
嬉しそうに雅裕が囁き、貴裕が笑顔で頷く名前『まゆちゃん』を知る被害者達は、一斉に目の前の少女を凝視した。
それを冴えた眼差しで黙らせ、敦は万由の手を握りしめる。
「頼んだぞ、万由。俺らの命はお前に預けた」
「.....分かったぁ。分かったから、絶対に死なないでねぇっ」
ほたほたと涙を流し、万由は顔をクシャクシャにして敦を見つめる。
瞬間、敦の身体の奥で何かが疼いた。
あー、何か分かるわ。好きな女の泣き顔って、股間に直撃するかも。
名残惜しげに振り返りながら立ち去る万由を見送り、敦は深い溜め息を吐く。
無神経な男の性を心の中で毒づきながら。
それでも心から万由の無事を祈った。
そんな敦の心も知らず、万由は必死に生い茂る植物の間を抜けていく。
邪魔くさいと思いつつも、何となく無意識に、その葉をむしり、左のポケットに捩じ込んでいた。
そして縄梯子に足をかけ、揺らさぬよう静かにのぼっていく。片足ずつ、ゆっくりと。
慎重に万由が梯子をのぼる中、五月を見失った貴裕と、万由を捕まえられなかった仲間達が神妙な面持ちで車の傍に集まっていた。
「もう。ここも終わりだろう。逃げ出した小娘が警察に知らせてしまう」
「時間がない。処分して逃げるか」
「.....兄さんは」
絞り出すように呟く貴裕に。仲間の男らはニヤっと笑う。
「上物を吹き飛ばすだけで良いさ。今まで運び込んだ食糧もあるし、畑もある。敦もいるし、ほとぼりが冷めた頃に迎えに来れば良い」
上の建物を吹き飛ばして、犯罪の痕跡を消す。吹き飛ばされた事そのものに疑惑の眼が向けられるだろうが、地下に被害は殆ど行かないだろう。
予め、隠し通路の辺りを潰してから行えば、警察がいくら調べようとも瓦礫の山しか見つからない。
娘らがどんな証言をしようと、地下迷路ごと潰してしまえば、捜索は困難を極めるだろう。
あの地下施設を知らない者には、その所在は判別しにくい。
貴裕らとて青写真と父親の説明書きを頼りに、ようよう見つけた場所である。
あとは程好いところで所有権を主張して、貴裕らが新たな建物を建てれば良い話だ。
また兄さんを閉じ込める事になるのか。
貴裕は切なげに問題の廃病院を見上げた。
だが今回は一人きりではない。
結果論だが、敦らが居てくれて良かったと貴裕は微かな安堵を覚えた。そして忌々しく苦虫を潰す。
あんな奴に感謝なんかしたくないのに。
しかし、敦のアレコレは間違いなく雅裕のためになった。認めたくはないが、認めざるをえない。
今回もそれが功を奏するだろう。
そして、何処かに隠れ潜む懐かしい少女。
アレを捕らえて地下に連れて行ったら、きっと兄さんは喜ぶに違いない。
また三人で遊ぼうよ。まゆちゃん。
薄く笑む貴裕の眼窟に、陰湿で濁った光が宿る。
生死をかけたかくれんぼは、ここに一方的な破棄を宣言された。
追い詰める猟犬は、獲物が出てこないならば、それで良いと車のトランクを開けて物騒な色々を取り出している。
外で男らの行動を窺っていた五月は、彼等の持ち出したモノに眼を見張った。
彼女の全身は細かい傷でズタズタである。
執拗に貴裕に追われ、メスがかすり、あっという間に満身創痍。
万事休すと覚悟を決めた五月は、体当たりで窓から飛び出した。
割れて鋭利なガラスがまとわるハメ殺しの窓。下手に触ればザックリいきそうなそれに、さすがの貴裕も、追う事を断念したのだ。
さらには、滴る血液で青から赤黒い紫に変わった五月の服が保護色にもなり、闇夜に紛れて身を潜める事に成功する。
身を潜めたまま男達を凝視する五月。
大量のケーブルにガシャガシャと転がる小さな部品。
そして何より眼を引いたのは、男の両手にも余る大きさの木箱に入った、真っ黒な粘土のようなモノ。
あれって、まさか。
五月もネットなどでしか見た事はないが、男らが掌で練る粘土のようなモノは、たぶん火薬だ。
それもC4と呼ばれる強力なモノ。
ネットの学生が同じように火薬を練り、信管を取り付け、簡易的な爆弾を作る動画とそっくりである。
嘘でしょ? あんなモノまで用意してあったの??
思わず見入る五月。
いずれはこんな事もあろうかと、用意周到に準備していた男達。
常に底辺で辛酸を嘗めてきた者だけが持つ用心深さ。
病的に最悪を想定し、これでもかと備える彼等の哀しい性が、五月には理解出来なかった。
そして五月は憮然と廃病院を見上げた。
ここの何処かに万由がいる。彼女は男らの凶悪な企みを知らない。
このままでは、万由が爆発に巻き込まれてしまう。どうしよう?
狼狽え怯える五月を余所に、手際よく簡易爆弾を作った男達は廃病院へと戻っていく。
それを凝視し、五月は覚悟を決めて男らの後を追った。
破棄されたかくれんぼは、攻守が逆転し継続される。
五月が男達の後を追う逆かくれんぼ。
鬼の後をつけて見つからないようにするテクニックは、子供らでもやる事だった。
背後に潜む五月に、男達は気づかない。
ここに生死をかけた最後のチェイスが始まる。
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