第7話 ~兄妹~


「なんだ、これ?」


 敦が拉致られて、ほぼ一年ほど。


 肩の傷もすっかり治り、幸いな事に死人も出ていない今日この頃。

 いつも通り、居住区の一室で眠っていた敦の耳に、遠くから悲鳴が聞こえた。

 隣室からではない甲高い悲鳴。それは間違いなく若い女性のモノである。

 テーブルに放置気味に置かれたスマホを取り上げ、敦は現在時刻を確認した。

 ここは何故か圏外で、外と繋がらない。

 だが、通話や検索等にはつかえないスマホでも、時刻を見るだけなら出来た。


 今は深夜十一時半。


 雅裕が午後九時に施設の電気を消すため、ここの連中は早々と就寝する。

 その分、起床が明け方の四時と早いのだが、農作業に従事していれば、そんなものだろう。


 深夜に起きた異常事態。


 思わず飛び起き、慌てて部屋から駆け出そうとした敦は、眼前に拡がる光景を驚愕の眼差しで見つめる。

 何時もの居住区の廊下では、いたるところに白い影が立ち上ぼり、床からぬうっと飛び出しては天井に消えていった。

 恐る恐る手を出して触れた敦は、以前に食らった悪寒を感じて、慌てて手を引っ込める。

 一瞬で気が遠くなる冷気。これに触るのはヤバい。


「何が起きて? どうすんだよ、これ」


 おろおろと周囲を見渡すが、居るのは、ひしめき合うように立ち上る幽鬼の群ればかり。

 ときおり敦に気がついたかのように、ニタリと嗤うおぞましい顔。

 だが襲ってくる訳でもない。ただ床から出ては天井に消えていく。

 まだ悲鳴は続いていた。かなり遠いみたいで、聞き取りにくいが複数のようだ。


 幽霊のバーゲンセールか? お祭りかよ。何が起きたってんだ?


 何も出来ない焦燥感に、敦は白い影達の隙間を縫いつつ、そろりそろりと廊下に進み出た。

 途端に足元から影が出てくる。

 身を捻って避けるも失敗。白い影は、敦の肘をかすめて天井に消えた。


 しまっ.....!


 思うが早いか、敦を掠めた影はごっそりと敦の体温を奪っていく。


「うっ....わ....」


 くらりと意識を失いかかった敦を、誰かの強靭な腕が支えてくれた。

 その腕は抱え込むように敦を支え、静かに廊下を歩き出す。

 ふらつき千鳥足な敦。それを心配そうに覗き込んだのは雅裕だった。


「あつ。ダメ。ここ」


「....まぁ君」


 薄い意識で呟いた敦に、雅裕が柔らかく微笑む。年相応の無邪気な笑顔。


「まぁ君。いる」


 雅裕の周囲を避けるように群がる白い影達。どうやら奴等は彼には近づけないようである。


 なんで? コイツら、なんなんだ?


 雅裕と白い影の関係を知らない敦の脳裏に浮かぶ疑問符。


「ダメ。あつ、さわるな」


 剣呑な眼差しに濁った光を浮かべ、雅裕は唸るように獰猛な口角を上げた。

 それに戦いた影らが、頼りなげな光を瞬かせて、ざわりと道を開ける。

 悪意の塊のごとき八方からの視線をモノともせず、雅裕は敦を抱えて廊下を進んでいった。


「無事かっ」


 引きずるように運ばれてきた敦を受け取り、角刈り親父は檻の中に彼を寝かせる。

 凍るような寒さで、敦は震えが止まらない。カチカチの鳴る歯に苦戦しつつ、敦は雅裕に口を開いた。


「あれは....っ、ふ...っ、なんなんだ?」


 以前にも敦を襲おうとした白い影達。

 雅裕は一瞬、哀しそうに眉を寄せたが、次には陰惨に眼をすがめ、ゆらりと立ち上がり、さも楽しそうに嗤った。


「なげき。かまが、ひらいた。よろこぶ、なげき、と、ちから」


 意味がわからない。


 かまが開いた? 喜ぶ? 嘆きと?


 訳もわからず言葉を失う敦を一瞥し、雅裕は檻を施錠する。

 ガチャリと硬質な音が響き、敦と角刈り親父は眼を見張った。


「ここ、いろ。そと、しぬ」


 言われて気づいた。


 檻の中には白い影がいない。


「たまご、まもる。みんな、ころす」


 ニタリと口角を上げ、雅裕は電気を消して闇に紛れていった。


 たまご? なんのこった?


 唖然とする敦を置き去りにして、雅裕は、初めて縄梯子に足を掛けた。

 この地下と上の病院の間には半地下の迷路がある。ここへと来させないための罠だ。

 貴裕達が死体捨て場にもしている場所。


 時は来たれり。


「たまご、が。かえるまで。じゃま、するな」


 うっそりと嗤う雅裕の周囲で、白い影らが嬉しそうに踊り狂っていた。


 それを見つめる紅い瞳。


《お兄ちゃん.....》


 紅い瞳を持つ小さな影は、静かに俯く。


 あれは何十年前だっただろう。




「ほら、これも食え」


「それ、あんちゃんのだよ」


「良いからっ」


 差し出された芋の切れ端。


 親指程度しかない大きさのそれが、彼等の朝ごはんだった。

 大人らの食事を作った時に出た切れ端や、残飯。

 僅かなそれを取り合い、檻の中の孤児達は飢えをしのぐ。

 米俵一俵で売られてきた孤児らは、陽の目もない地下の栽培施設で身を粉にして働いていた。

 農作業以外にも、掃除や雑用、軽作業と、息をつく間もなく働き、それが終わると倒れるように眠り込む。


 そんな毎日が数年続き、弱い者は淘汰され、地下の穴へと捨てられた。


 少なくなった分仕事も増し、息も絶え絶えに働く孤児達。


 悲惨極まりない環境で、泣きながら呪詛を呟きつつ、一人、また一人と減っていき、ようやく、このままでは業務に支障が出ると気づいた大人達が、ほんの少し孤児らを顧みるようになった。


 何時もの残飯と一緒に渡されるようになった小さな塩むすび。


「あんちゃん、美味しいね」


「良かったな、これも食べ」


「あんちゃん、食べな」


 渡された半分の塩むすびを、兄の口に押し付ける妹。

 劣悪な環境であれど、二人は幸せだった。離れ離れにならず、肩を寄せ合える。

 そんな細やかな事すらも幸せだった時代。


 それは唐突に終わりを告げた。


 日本の敗戦を知った、施設の大人らは玉砕を選んだのだ。


 当然、檻の中の孤児らも道連れにされる。


 陰惨に眼を輝かせた大人達に、次々と殺される孤児達。その死骸は、全て用足しの穴に投げ込まれた。

 以前に死んだ者も投げ込まれた穴。


 全ての孤児らを処分し、大人達も自決する。


 こうして、全ては終わった。


 時代の片隅で人知れず潰えた命達。


 しかし、塵も積もれば山となる。


 多くの嘆きや無念の残留思念は、力を得て形を取った。

 彼らに人間だったころの意識はない。

 ただ、ただ、人を呪い、世間を憎む殺伐とした切ない意識の集合体。

 意思を持って人を怨むそれは、一人の少年に力を貸した。

 ここから解き放たれるために、彼の協力が必要だったからだ。


 卵をかえすために白い影となり、少年の凶行から多くの嘆きや哀しみを受け取った。

 さらに力をつけた怨念は、新たな力を生み出した。


 はずだった。


 無念を感じる暇もなく殺された小さな子供。兄にかばわれ、一番最後に殺された小さな少女は呪詛を呟かなかった。

 先に殺された兄の亡骸を見つめ、彼女が最後に呟いたのは、あんちゃん、ありがとうの一言。


 他の思念に混ざり、夢現だった少女だが、他の思念とは違い、恨み辛みのない純粋な思念の少女。彼女は大きな力と意思を持った。

 混ざり合い蠢くだけの意識の中で、少女の意識が一番明瞭だったせいである。


 それは小さな奇跡。


 雅裕が、記憶として見せられた孤児らの姿。それを哀れんで、彼が畑に与えていたお握り。


 その優しい供物を受け取り、少女は眼を煌めかせた。


《あんちゃん、食べな》


 少女の手には小さな塩むすび。


 その声に応えるように、少女の兄も明瞭な姿を持つ。

 この小さな奇跡が思念でしかない二人に、他の怨念らとは一線をかくした力を与えた。


 白い影らは二人を守り、力をつけさせ、雅裕に兄の魂を憑依させる。


 紅い瞳の小さな影は、その眼を陰湿にすがめ、兄の宿る雅裕を見つめた。


 仕上げは、もう間近。


 白い影らが喜び揺れている。


 ここに執着のある彼等は、この地下から動けない。抜け出すには他の協力が必要だった。

 代わりに、この地下であれば彼等に出来ない事はない。

 雅裕を生かすために力を与える事も、燃料が無くとも機械を動かす事も。


 八月十五日。これは彼等の命日であり、日本中で一番念の集まる日でもあった。


 白い影らの望みはこの地下から抜け出す事。

 悲惨きわまりない境遇で、死に至った彼らが切実に望んだ希望は、記憶のない力だけの存在となっても失われる事はなかった。


 この地下から解放され、自由になりたい。


 悪意に染まり、多くの嘆きに満ちた地下から抜け出すのは至難の技。

 しかし、そこに芽吹いた二粒の種。悲劇の中心、その汚濁の中にあっても感謝と慈悲を忘れなかった二人の兄妹。

 この二つの魂は、他の怨念に混ざる事はなく、他の怨念らも二人を守るために、小さな卵のように暖かく慈しんだ。

 白い影らに遺された最後の希望。

 毎年の命日に噴き出す怨みの念を糧として、細々と地下に棲くっていた白い影らに転機が訪れたのは八年ほど前。


 凄まじい怨念を抱いた男が、贄を連れてくる。憤怒に溢れた男は、心地よい邪念に満ちていた。

 喜んでそれらを啜り、白い影達は力をつけていく。

 檻に閉じ込められた雅裕の嘆きや絶望も美味で、数年にわたり贄の絶望を啜った怨念らは、彼と同化した。

 長い時間を共にした贄との融合は容易く、贄は番人となり、新たな嘆きを白い影らに捧げてくれる。

 血や肉を梳るかのように一片の欠片も残さず与えられる極上の恐怖。

 繰り返された嘆きと恐れと絶望のコントラストは怨念らに力をつけさせ、とうとう卵を孵化させる至った。


 生まれた紅い瞳の兄妹は、白い影達とは違う純粋な力。

 邪念を持たぬ彼等は、容易く雅裕に融合し、その本懐を果たす。


 あとは生まれて、この鳥籠たる地下から抜け出すだけ。

 そのためには、敦と万由の協力が必要だった。


 紅い瞳の少女は白い影らに、そう語る。


 今日は八月十五日。霊が降りやすく、地獄の釜も開きやすい。


 その念に乗り、白い影らは悲願を果たす。


 彼らの持つ唯一の望み。


 深い軛に繋がれた地下から解き放たれる奇跡を。




「おらっ、何処まで逃げるんだよっ」


 狂犬のように獰猛な眼を見開き、メスを両手に追ってくる男。

 掠めたメスの傷が、五月の肌に生暖かい血を滴らせていた。


 あの日、地下へ降りた五月達は、真っ暗な場所で右往左往している所を貴裕らに見つかったのだ。

 下りた縄梯子を不審に思ったのだろう。やってきた貴裕達は、眼をギラつかせて怒鳴り声をあげている。


「いるのは分かってんだっ、出てこいっ!」


 出てこいと言われて出る馬鹿はいない。


 幸いな事に、最初は闇に紛れて逃げる事が出来た。

 探索する貴裕らの隙をつき、慌てて縄梯子をのぼる五月達。


 しかし、病院前には見張りがおり、階段の影に隠れつつ、五月らは頭を捻る。


「このままじゃジリ貧だ。何とか街へ連絡取らないと」


「何でスマホも繋がらないんだろ?」


 万由はアンテナの立たないスマホを忌々しく見つめた。


 彼女らは知らないが、ここは怨霊達のテリトリー。彼等の望まぬ事は阻まれる魔の領域である。

 雅裕の持つ、ホットラインの携帯以外は繋がらない。

 そうこうするうちに、男らの足音が下から上がってきた。


 もはや、時間はない。


 見つけないでっ!


 階段横の消火栓の影に隠れつつ、五月らは必死に祈った。

 だが、それも虚しく、男らの一人、貴裕が声高に叫ぶ。


「出てこないなら、行方不明者らを始末するぞ? 女もいたなぁ。どうせ、それ系なんだろうがっ、出てこいやっ!」


 バレてた。


 三人は天を仰ぎ、消火栓の影から姿を現す。


 現れた少女三人に眼を見張り、男らは下卑た笑みを浮かべた。

 あからさまな嫌らしい視線に身を震わせ、それでも五月は、行方不明者がまるでまだ生きているかのような貴裕の言葉を聞き逃さない。


「....あんたらが犯人? 何で拐ったの?」


「ああ? どうだって良いだろうが。おまえらにも逢わせてやるぜ? 大人しくしてればな」


 そう言いつつ、貴裕は少し眉を寄せる。


 その視界には万由がおり、彼は何かを思い出すように首を傾げた。

 その隙をついて、五月は後ろ手に指を動かす。

 五月の指は、二本で上と下を示し、一本で外を示す。万由と千歳は小さく頷き合った。


「......おまえ、名前は?」


「え? アタシ?」


「そうだよ。雅裕って名前に聞き覚えは無ぇか?」


「は?」


 まぁ君? 何で知ってるの?


 思わず乗りだしかかった万由の動きを止め、五月は消火栓のボタンを叩き割り、思い切り押した。

 だが予想を外れ消火栓は沈黙し、そのホースからは水も出ない。


 その一連の動きをせせら嗤い、貴裕が上着の裏からメスを引き出した。

 彼の得物は使い慣れたメス。切る事に特化した鋭利な刃物は、今まで散々血の海を作ってきた強者である。


「舐めたマネしてくれんなぁ? 女だからって容赦しねぇよ? オレ」


 それが合図だったかのように、周囲の男達も、それぞれ得物を持ち出していた。

 ナイフが三人に、縄が一人。そして一番大柄な男が持ち出したのは拳銃だ。

 それを視認した瞬間、五月が叫んで男らに突進した。


「いけえぇぇーっ!!」


 途中のテーブルを引っ掻けて男らにぶつけ、五月は渾身の体当たりをかます。

 次に懐から取り出した催涙スプレーを辺り構わず噴射した。


「うおっ?!」


「なんだ。これっ? 喉がっ!」


 唐辛子系のスプレーは、男らを混乱に陥れる。

 突然の事に狼狽えて数人の男がテーブルに巻き込まれ、続きの催涙スプレーに揉んどり打つが、それに眼を奪われた隙をついて、万由は二階に駆けあがり、千歳は開いていた玄関から外に飛び出した。

 そして、五月もすぐに態勢を立て直して一階奥に駆け込んでいく。


 三方に分かれた少女らに眼を泳がせ、男らは貴裕を見た。

 未だにスプレーを食らって掠れる喉をさすりながら涙目だが、その眼は忌々しそうにギラついている。


「外だっ、外に逃げた女を捕まえろっ、街に逃げられたら不味いっ!」


 それに頷き、男達は外に出た。が、なんと千歳は既に遥か彼方。

 疾風のごとき速さで山沿いの道を目指して林の中を駆けていく。


 男達は知らない。千歳が県下一の俊足を持つスプリンターである事を。

 しかも、ただ走るだけなら何時間でも走られる持久力がある事も。


 五月に指で外と二階を示された時、当然、千歳は自分が外を担当するのだと理解した。

 一見、ぽややんとした、おっとり少女だが、こういう思い切りの良さは五月や万由と変わらない。


 自分の仕事を見誤らない。


 無心に駆け抜けていく少女を唖然と見つめる男達。


 だが、即座に反応したのは、またしても貴裕だった。


「車だっ! 麓の街まで一本道なんだ、車で追いかければ間に合うっ!」


 山に入るなら、それでも好都合。山や林の中ならば御自慢の俊足も役には立つまい。


 言われて男達は、車に飛び乗る。


 それを二階にから見ていた万由は、ぎゅっと心臓を凍りつかせた。

 さすがの千歳でも車で追われたら逃げられない。顔面蒼白で窓の手摺に張り付く万由。

 しかし、ふと視界の端を何かが走る。

 それは五月で、男らが車に乗り込む前に、何かチャカチャカと動き回っていた。

 そして車が動き出すと同時に、また病院の方へ走ってくる。


 なんだろう?


 首を傾げつつ万由が見ていると、走り出した車は明らかに傾ぎ、ガタガタと揺れつつ止まった。

 男達が悪態をつきながら車から降りてくる。

 どうやったのか分からないが、五月が車の足止めをしたようだ。


 事のカラクリは一本の千枚通し。ぷしぷしと数回突き刺して終わりなお手軽パンク。

 中にはそういった破損に強いモノもあるが、それでダメなら、業務用カッターでザックリやるつもりの五月だった。


 二階から一部始終を見ていた万由は、ほっと胸を撫で下ろす。

 だが、ふいに病院を見上げた貴裕と眼が合ってしまった。

 カチリと合わさった視線に、瞬間凍結。

 爬虫類のごとく温度のない彼の瞳の奥に燻る狂気をそれとは知らずに感じとり、彼女は全身を粟立たせた。

 慌てて中に逃げ込んだ万由に眼をすがめ、貴裕は薄い唇を捲り上げる。


「ああ、間違ってないよな? まゆちゃんだろう? 兄さんが待ってるぜ?」


 ほの暗い眼窟に宿る濁った光。


 雅裕と同じ陰惨な輝きを瞳に宿し、貴裕は病院の中に戻っていった。


 ここに生死を掛けた、衂れのかくれんぼが始まる。


 勝者は誰か。


 ニタニタと嗤うように揺れる白い影達にも、その結果は分からない。

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