第5話 ~紅い瞳~


「何というか。俺も図太いんだな」


 捕まってから半年ほどたったころ。


 敦は、人の経験する恐怖になんかしらのボーダーラインがあるという認識は間違っていると確信した。

 恐怖が恐怖を呼び、古い記憶はあらたな記憶に上書きされて、蓄積される事なく更新される。

 毎回起きる凄惨な出来事は、新たな凄惨な出来事に相殺され、敦は今も正気を保っていた。


 つまりは慣れたのだ。


 有り得ないと思いつつも、今現在がそれを証明している。

 そして敦は、雅裕を誘導する事も覚えた。


「ダメだって、ほらっ」


 雅裕は、貴裕らがら持ってくる食糧を、何故か畑に混ぜていた。

 肥料のつもりなんだろうか? そういった残飯系は、ちゃんと発酵させねば熱やガスがでて、むしろ作物に悪いと聞いた事がある。

 お握りなどを畑に混ぜるためほぐしていた雅裕の手をやんわりと止め、敦は檻にある穴だけのトイレを指さした。


「そんなんより、あっちのが畑には良いとおもうぞ?」


 排泄物に刈り取った作物の残骸や水を投げ込み、よく混ぜること数ヵ月。

 それで肥料もどきが出来上がるだろう。それを畑にまくよう敦は説明した。


「檻以外にも部屋は沢山あるしさ。皆でローテーション組んで、使うトイレを回せば肥料には困らないんじゃないか?」


 微笑む敦の説明を、雅裕は半分も理解していない。

 それでも、じっと聞く素直な仕草が敦には可愛らしく見えた。相手は殺人鬼なんだが。

 しかし、こうして数ヶ月を共に暮らし、敦には分かった事もある。


 この毛むくじゃらな青年は何も知らないのだ。


 何がどうなって、誰が今の状態を作り上げたのかは分からない。

 だが、まるで幼児のような雅裕の言動に行動。感情の起伏が乏しいのに、その揺れ幅は大きい。

 人畜無害な普段と獣のような残虐性。

 相反する二面性は、多分何も知らない無知、無邪気から来るものだと敦は思った。

 命というモノを知らない。人の痛みを知らない。だから思うがままに行動する。

 穏やかな日常を壊す者を、邪魔だからと排除する。そこに意味は何もない。敦は、そう考えた。


 ならば教えてやれば良いのではないだろうか。


 雅裕は酷く残酷だ。子供が虫の手足を千切るかのように、人間の手足をもいでいく。

 そこに差はない。虫も人間も雅裕にとっては同じなのだろう。


 だが違うのだと。人をもいではいけないのだと。誰かが雅裕に教えてやれば良いのだ。


 そんな儚い夢を見る敦。


 精神的苦痛なら味わい尽くした雅裕である。まさに死の直前まで。

 白い影達によって当時の記憶は曖昧なものの、その心の奥底に眠る本能は、生ける物全てへの憎悪を燻らせていた。


 当然、その先には無惨な現実が待っているのだが、今の敦はそれを知らない。




「アホか、おまえ」


 はい、アホでした。


 水を入れて檻のトイレをかき混ぜていた敦に、貴裕が奥の倉庫を顎でしゃくって示した。

 そこには大量の腐葉土や肥料が仕舞われている。


「肥料なんざ、ちゃんと運んでるに決まってるだろうが。馬鹿やってないで働けや」


 貴裕がバシンっと敦の後頭部を叩く。言われて敦は力なく蹲った。


 なら、何で雅裕は食べ物を畑に混ぜたりしていたんだ?


 不思議そうに畑を見つめる敦。


 彼は知らない。雅裕の行動が御供えであった事に。

 白い影らと融合することで生き長らえた雅裕は、その無惨な記憶も共有していた。

 だから、この地にお供え物をあげていたのだ。

 ろくに食べ物ももらえず働かされて死んでいった過去の嘆き達への、無意識の供養に。


 それは後に小さな奇跡を生む。




 奇妙に歪んだ地下生活。


 しかし雅裕への恐怖による支配は、少しずつ変わってきていた。

 敦を栽培エリアに連れてきてから、雅裕は彼の行動を妨げない。

 特に危ない事をしない限り、敦は自由に動けるようになった。

 不可思議な信頼感が二人の間には流れている。どちらも特に気にする風でなく、ただそこに居た。自然に、あるがままに二人は背中を合わせている。

 言葉も必要のない阿吽の呼吸。


 貴裕が見ようものなら、悋気で敦を殴り殺した事だろう。


 幸い、貴裕がいる時の雅裕の視線は貴裕に向いていたので、この日常が露見する事はなかった。




「ほら、食べよう」


 貴裕が差し入れる食糧の大半は保存食。ついでにいつも、買い物袋二つ分くらいのパンやお握りを持ってくる。

 しかし、それをよく分かっていない雅裕は、保存食と一緒にそれらも倉庫に仕舞ってしまうため、期限の切れた食べ物の残骸がそこかしこにあった。

 長期保存用のパンや牛乳。ジュースや非常食が山積みになった倉庫で、乾ききったお握りや、スカスカ、カチカチになったパンらを見つけた敦は、思わず天を仰いだものだ。


 これも分かってなさげだな。


 最初の頃、雅裕が言った、『あるけどない』という言葉。

 段ボールで積み上げられた、某有名な数ヵ月保存出来るパンや、他諸々。

 どの箱も全く開封されていない。

 貴裕が、どう説明をしたのか分からないが、この箱の中に食べ物がある事すら認識してなさげな雅裕である。

 そして話を聞けば、働き手の食べ物として乾パンの事だけを聞いたようだ。


 これを与えておけと。


 雅裕は言われた通りに乾パンを檻の中の青年らに渡していたらしい。

 あとは敦と同じ。生野菜。

 乾パンは檻の連中だけに与えるモノだと思っていた雅裕は、敦に出さなかったのだ。

 敦に問われた時、彼は貴裕らが持ってくる買い物袋のパンやお握りだけしか思い浮かばなかったようで、それらが届いてから、ようやく敦にパンを渡したのである。


 倉庫に唸るほどあったのに。


 敦はこの箱の中にも食べ物があるのだと雅裕に説明し、実際に開けてみせた。

 中から出てきたジャムパンやチョコクロワッサン。水を入れれば五目ご飯や赤飯になる非常食。他、多数。

 貴裕は簡単に食べられる物をチョイスして運び込んでいた。なのに、その説明が疎かだったらしい。


 しかし、パックの牛乳に半年ももつモノがあるとは知らなんだ。


 手にした五目ご飯を大切そうに抱え、驚きに眼を見張る雅裕の横で、敦も新たな発見に眼を見張っていた。 


 そんなこんなで、毎回持ち込まれる買い物袋の中身を、働く青年らに分けるよう敦は雅裕に頼んだ。

 これは長くもたないから、早目に食べる物なのだと。


 敦の言葉に雅裕は素直に頷いた。


 多分、これもよく分かっていないのだろうなと、やや苦笑する敦である。


 もらったパンやお握りを見て、呆然とする檻の中の青年達。

 いつも貰うのは乾パンと生の野菜。それも片手にのる程度で、日に二回。

 あとは中に設置してある洗面台で飲む水だけ。


「あの.... 大丈夫なんですか?」


「なにが?」


「...........」


 おずおずと声をかけてきた青年は、チラリと雅裕に視線を振る。

 その眼に浮かぶ恐怖を敦は見逃さなかった。


「大丈夫だよ。ちゃんと雅裕から許可は貰ったから。あいつ分かってなかったんだよ。これが日持ちしない食べ物だって」


 複雑そうな顔を見合わせつつも、目の前の置かれた食べ物への誘惑には勝てず、青年達は恐る恐る貰った食べ物の袋を開ける。

 そして久方ぶりに食べた文明食に眼を見開き、声もなく涙をこぼした。

 夢中で食べる彼等を見つめ、敦は今までの話を聞く。

 言葉少なな彼等の話によれば、半数は貴裕達が連れてきた者で、残り半数は敦と同じく廃病院近辺で捕らわれた者だった。

 運悪く貴裕らが物資を運び込むところを見てしまったとか、廃病院に向かう車が気になり追ってきてしまったとか、理由は様々。

 中には行方不明事件の影響から、肝試し的にやってきたと言う者もいて、敦は己の浅慮を頭の中でだけ毒づいた。

 そして分かったのは、行方不明になった者のうち四人がこの場にいる事。

 彼等は一般人だ。怯えすくみ、雅裕の気に障るようなことなどしなかったため生きながらえていたようだ。

 殺された者の殆どは貴裕が連れてきた者。

 どうやら借金のカタや、博打のツケなどの代償にここへ連れて来られたらしい。


「カネが払えないなら働けって。一年働いたらチャラにしてやるって..... まさか、こんな恐ろしい場所だなんて知らなかったんだよ」


 借金だの博打だのと、やんちゃしていた奴らである。

 当然、大人しく働くはずもなく、大半はやってきてから半年ももたずに雅裕の逆鱗に触れたのだとか。あとは御察しだ。

 殺害された遺体は貴裕らが始末しているらしい。

 所定の位置に置いておけば、彼らが運び出してくれる。


 .......聞いた話だけでも、かなりヤバくね? 貴裕って何者よ?


 実際には貴裕がではなく、その仲間のバックグラウンドがなのだが、そういった事に疎いパンピーな敦には分からない。


「どっちにしろ、ここから出られる術はないわけか。一年とかって期限も怪しいな」


 それは全員が理解していた。


 貴裕が連れてきた者らは、この場所が何処なのか知らない。

 目隠しされて運ばれ、気がついた時には地下に居たのだから。

 案外、本当に一年たったら解放される可能性もなくはない。限り無く低い可能性だが。


 しかし、敦らは違う。


 ここが何処なのか知っている。敦らこそが、一番ヤバい状況なのだ。

 そこまで考えて、敦は行方不明者が一人足りない事に気づいた。


 そして思い出す。衣を裂くように上がる、隣の女性の悲鳴を。

 思わず口元に手を当て、敦は一番最初に行方不明者となった女子高生の記事を脳裏に浮かべた。

 その懊悩する様子を訝しみ、首をかしげる周囲の人々。


 彼等の苦悩や嘆きをすすり、悦に入る妖。


 己の影の中で蠢くそれらに気づかぬまま、檻の中で干からび、ただのゴミのように見える人の指の成の果てが、嗤うかのようにカタカタと揺れていた。




「あれって.....?」


 トイレ回し肥料作戦、ついでに檻の人間らを居住区に移しちゃおう!が頓挫し、無用となった道具をかたづけようとした敦は、排泄物を混ぜていた棒に妙な違和感を感じて、穴を覗き込む。


 何か硬い感触。それも複数だ。


 棒で混ぜていた時に下から浮いてきたのかもしれない。

 この穴は、穴が貫通しているだけで、下には大きな空洞があるようだった。

 棒にあたるそれをコツコツと突っついていた敦は、ぞわりと産毛を逆立てる。


 いや、まて。考えすぎだ。ほらっ、あれだ、枯れ尾花的な.....


 だが、その楽観した考えは、一瞬で現実という鋭利な剃刀に削ぎ落とされた。


「ひっ....!」


 敦は仰け反り、投げ捨てるように棒を手離す。

 その棒は穴の輪郭に沿ってクルリと回り、かららんっと甲高い音をたてた。

 棒の先には丸い頭蓋骨。先端が眼窟にささり、ぷかりと浮いていた。

 敦は眺めていた穴の中の光景に戦慄し、足元から這い上がる悪寒が、ねっとりと全身に絡み付くのを感じる。

 中に浮かんでいた頭蓋骨は一つではなかった。少なくとも二桁。それも頭蓋骨ばかりではなく、肋骨や大腿骨のように太いモノも見えていた。

 下に、ぽっかりと空いているだろう空間にひしめく人骨。


 なんだこれ? なんなんだ、いったいっ!


 雅裕の仕業だろうか? いや、綺麗に白骨化した人骨だ、ここ数年のものではないだろう。年齢的にも雅裕ではない。

 そして、ふと部屋の壁周辺に散乱するゴミに眼を奪われる。


 枯れた木のような何か。


 再び、敦は全身を粟立てた。


 その転がる何かには小さな爪がついている。

 干からびてゴツゴツした枝にしか見えない物の正体を覚り、敦は眼球が飛び出さんばかりに眼を見開いた。

 緊迫感が辺りを包み、得体の知れない何かが蠢く檻の中。


 鼓動がどんどん早くなっていく。眼に見えない悪意が、そこかしこに転がっているような気がした。

 無意識にジリジリと後退る敦は、ふと白いモノが視界の端を過ったような気がして、反射的に振り返る。


 馬鹿っ、なんで振り返っちゃったんだよ、俺ぇっ!


 不用意な己を毒づき、それでも視界の白い影から敦は眼を逸らせない。


 それらは仄かに点滅しながら揺れている。


 一つ。二つ。みるみる間に影は数を増やし、気づけば敦の周囲を囲っていた。

 ガチガチと歯を鳴らしつつ、敦はその場に踞る。怖くて顔が上げられない。

 頭を抱えたままブルブル震える敦に、白い影らが手を伸ばす。

 触れられた所がヒヤリとし、次には凍るような寒気が敦を襲った。


 ヤバいっ、ヤバいっ、ヤバいっ!!


 体温を全て奪い尽くすような壮絶な寒気。


 このまま行ったら、俺、殺されるんじゃないかっ?!

 何とかしなくては....っ、でも、どうしたら??


 狼狽える思考を纏めようと、敦が足掻いていた時。

 敦と白い影の間に、小さな白い影が現れた。

 その小さな影は爛々とした紅い瞳で他の白い影を見上げ、パンっと甲高い音とともに、敦に触れていた影を弾き飛ばす。


《不履行だよ。この子は応としていない》


 周囲の空気がざわつくのを敦は感じた。


 先程まで充満していた不穏な悪意が消えている。


 しばらくしてソロリソロリと顔をあげた敦の周りには何もおらず、冷たく転がる人骨があるのみ。


 今のは一体何だったのか。


「ここって殺人鬼だけじゃなく、お化けまでいるのかよぉぉ」


 雅裕だけでも手に余るのに、勘弁してくれよっ!!


 わちゃわちゃと両手を振り回して、心の中でだけ絶叫する敦。

 それを天井から見下ろす、妖らの影があるとも知らずに。


《何故、邪魔をした?》


《アレは余計者だ。消さねばならぬ》


《番人の邪魔をする。嘆きが消える》


《そなたらを解き放つには、もっと多くの嘆きが必要だ》


 憤怒も顕に揺れる影達。


 それを流して、小さな影は紅い瞳を瞬かせる。


《応とせぬ者に手を出してはならない。手を下すのは番人の仕事。それ以外の嘆きは、理の外》


 辛辣に紅い瞳を輝かせる小さな影。


 どうやら妖にも序列があるようだ。


 他の影達は、この小さな影に戦いている。


《アツシ。お兄ちゃんを.....》


 未だにガタガタと震える敦を、小さな影が紅い瞳で見ていた。

 その眼差しは、いたく柔らかい。まるで、子供を見守る母親のように、澄んだ眼差しだった。

 苦悩と嘆きを求める白い影達。番人の凶行により彼等は多くの嘆きを得て力をつけた。

 しかし、それと同時に新たな力も生まれた。


 鬼が出るか蛇が出るか。


 新たに生まれた紅い瞳の妖は、ほの静かに揺れ動き、風とともに霧散する。


 彼女は白い悪意達が守ってきた大切な卵。守られていた卵は二つ。


 人の嘆きや涙を糧とし、古き忌まわしい過去を引きずり、朽ちた卵は少女の姿に孵化をした。もう一つも。

 しかし、自らの怨念渦巻く地下の鳥籠から、白い影や少女らは出られない。


 出るには依り代が必要だ。


 その依り代は既にある。あとは解放してくれる者を待つばかり。

 解放者としての白羽の矢が、今、敦に立てられた。


 白い悪意達の企みを、誰も知らない。

 

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