第4話 ~兄弟~


「....う...ぁ?」


 あれからどのくらい経ったのだろう。


 雅裕は地下の檻に閉じ込められたまま、ときおり差し入れられる食糧で生き延びていた。

 硬く冷たいコンクリートに直に横たわり、無いよりマシな程度の薄い毛布。

 ときおり走り回るネズミがカサカサと音をたてるくらいで、辺りは静寂に満ちている。


 ここは薄暗く時間の経過が分からない。


 ただ横たわるだけの身体は、指一本動かせないほど衰弱していた。

 虚ろな眼差しで宙を見つめる雅裕の瞳はドロリと濁り、生気の欠片も残っていない。


 人は人として扱われないと精神が疲弊する。俗に言う鬱というヤツだ。

 症状により様々な病名に別れるが、食欲が減退し、自傷行為に耽り、生ける屍と化していく。


 そこに在るだけの肉塊。


 父親の差し入れる食糧にも手をつけなくなり、そんな息子を見つめて父親は深い溜め息をついた。


「まだ生きてるのか。しぶといな」


 人に在らざる言葉。なんという碌でなしか。


 檻の前に立つ父親の影の中で、何かがざわめいていた。


 人ならざる何かが。


 それに気づきもせず、父親は誰にも知られぬ地下を利用して、雅裕を亡き者にしようと企む。

 失踪届けや捜索願いも出してある。あの日から六年。もうすぐ法的にも雅裕は死亡扱いとなるのだ。


 この息子は死んでも構わない子供だった。


 なぜなら雅裕には貴裕という弟がいる。一つ違いの弟は、しばらく雅裕の不在に困惑していたが、今ではすっかり忘れたようだ。

 雅裕より我が儘で乱暴な部分はあるが、少なくともキチガイではない。


「俺はもう来ない。俺達に恥をかかせて迷惑をかけた事を、あの世で後悔しろ」


 父親からの決別の言葉。


 次に訪れた時には死んでいるだろう。医師である父親は、そう判断する。

 今の状況でも生きているのが奇跡なのだ。わざわざ死体の確認に訪れる必要もない。


 雅裕は、視界の中で立ち去る父親を見つめながら、声もなく涙を溢した。

 もはや身体を起こす気力もない。

 横たわる頭の曲線をなぞり、しとしとと伝う温かな雫。

 それが無機質なコンクリートに模様を描いた瞬間、雅裕の周囲が仄かに光る。


 そして現れたのは、複数の白い人型の影。


 影は雅裕を労るように髪を撫でた。


《嘆きをもらった》


《甘露な雫》


《ここは嘆きの積もる淵》


《多くの嘆きが力を貸そう》


《何を望む?》


 問われた言葉の大半は理解出来なかった雅裕だが、最後の言葉は理解した。


 ボクの望み?


「......死にたくない」


 生き物として最低限の権利。


 彼は今まで、散々父親に懇願してきた。


 ボクが悪い子でした。ごめんなさい。許してください。


 ここから出して。


 檻にすがり、泣き叫ぶ息子の悲痛な懇願を全て黙殺し、雅裕の父親は食糧だけを置いて立ち去っていく。


 何度も何度も。


 すでに息子とも思っていないだろう父親の、凍えた切れる眼差しは、雅裕を絶望に突き落とした。

 元から、両親の愛情を感じた事はあまり無い。外面は良いが、家の中は冷えきり息苦しく、弟と二人で遅くまで外にいた。

 夕飯前ギリギリまで家には戻らず、夕飯が終わったら勉強や宿題で部屋にこもる。

 成績さえ良くば何も言われないから。


 でも。それでも、心に渦巻く渇望はおさまらず、小さな生き物を惨殺する事で発散する。何度も。何度も。

 弟の貴裕も同じようだ。

 二人で黙々と、小さな生き物にカッターナイフを突き刺し続ける歪んだ日々。


 それが変わったのは、一人の少女と知り合ってから。


 ありったけの好意を隠さずに傍にいてくれた少女。

 彼女と遊ぶようになって、雅裕と貴裕は生き物を殺す回数がみるみる減っていった。


 普通に鬼ごっこや、かくれんぼをして、穏やかに過ぎていった日々。


 あれが幸せだったのだと今なら分かる。


 本当に幸せだった。彼女は二人が生き物を殺していても、柔らかい眼差しで見守ってくれていた。

 自然体で、あるがままに、そこにいてくれた。

 両親から欠片も貰えなかった暖かさを、二人は初めて貰ったのだ。


 まゆちゃん。


 力なく座り込み、涙も枯れ果てたころ、雅裕は人格を崩壊させる。

 心があるから哀しいのだ。人であるから苦しいのだ。

 暖かな最後の欠片を守るために行われた自己防衛。

 物言わぬ人形のようになった雅裕を、とうとう父親は切り捨てた。

 心を殺した雅裕だが、その奥底にはまだ仄かな光が残っている。

 枯れたと思っていた涙が、再び溢れてくるのがその証拠。

 どんなに無関心な両親でも、せめて少しは思ってくれていると雅裕は考えていた。

 なのに、結果は襤褸屑のごとく捨てられたのだ。


 雅裕の心に相反する葛藤。それを嘲笑うかのように、白い影らが揺れる。


《良かろう。ならば人を捨てよ》


《嘆きの番人として力を与えよう》


《死を遠ざける力を》


 雅裕の周囲を囲んでいた白い影は、彼の頭に触れ、何かを流し込んできた。


 それは多くの嘆きの記憶。


 この地下で強制的に働かされ潰えていった多くの人々。

 上の軍事施設を支えるため、秘密裏に食糧を生産し、供給するために集められた孤児達の記憶。


 人を人とも思わぬ輩は何時の時代にも尽きる事はない。ましてや権力を持つ者は、にわかな万能感に踊らされ、取り返しのつかない愚行を犯す。


 その犠牲となるのは、何時の世も力ない弱者達。


 その切ない嘆きや涙。凄絶な煩悶が大地に染み込み、目の前の白い影等が生まれた。


「君達は幽霊なの.....?」


《そうとも言える》


《そうでないとも言える》


《我々は記憶と力》


《嘆きを得て形を取れるようになった力》


《新たな嘆きを我々に》


《さすれば、そなたの力も増す》


 ニタリとほくそ笑む白い影達。


 雅裕は、その陰惨な笑みに背筋を震わせた。

 この世のモノとも思えぬ凄みを含んだ怪しげな笑み。

 そういった言葉を知らぬ雅裕にも、その残酷な雰囲気は察知出来た。彼等は善いモノではない。


 だがしかし、他に助けはない。


 ここで人知れず朽ちていくか、怪しげなお化けの助けを借りるか。


「.....助けて」


 絞り出すような雅裕の呟き。


 それを聞いて、周囲の空気がざわりと揺らめいた。

 如何にも嬉しそうな白い影。


《ならば我々に多くの嘆きを与えよ》


《出来うる限り深く刹那的な嘆きを》


《それを為すには人の心は不要》


《その心を我らに捧げよ》


 静電気のように耳障りの悪い空気が雅裕の鼓膜を震わせた。

 頭の中からあらゆる物が削り取られ、暖かい気持ちが失せていく。

 まるで脳内を直接まさぐられ、刮ぎ取られるような不快感。あまりのおぞましさに、雅裕はか細い悲鳴をあげた。


 長く響く悲痛な叫びが部屋の薄暗がりに吸い込まれ、消えた頃。


 力なく横たわっていた雅裕の瞳に怪しげな光が灯る。


 無機質なガラスのように透明な光。澄んだ水面のように凪いだ瞳は何も映していない。

 いずれ暗く濁るために、今の雅裕の瞳は限りなく透き通っていた。

 全ての暖かな気持ちを削ぎ落とされた雅裕の心からは、あらゆる重荷が取り除かれ、父親の事も、家族の事も、自分の今の状況にすらも無関心。


 その心に残るは、本能に基づいた狂気のみ。


 全てを呪い、怨み、滅ぼす事を望む、純粋で狂暴な意思。


 大きく口角を歪め、雅裕は身体を起こした。


 まるで生まれ変わったかのように清々しい気持ちだ。何故あれほど泣いていたのか、全く分からない。

 衰弱していた身体も、見掛けは痩せ細ったままだが、その内側には気力がみなぎっている。

 むしろ余計な肉が落ちている分、身体が軽い。


 そういえば父親の置いていった食糧があったっけ。


 気力の満ちた身体は、急激に空腹を思い出していた。

 殆ど食べていなかった食糧は、手付かずで残っている。

 それを食べようと手を伸ばした雅裕は、その手首に巻かれたリボンに気がついた。


 赤黒いシミのついた古びたリボン。


 それが鏡のような瞳に移った途端、雅裕の頭の中で、ピキッっと甲高い音がする。

 全ての暖かな感情を失ったはずの雅裕の脳裏に、悲壮な顔で自分を見つめる少女が浮かぶ。

 今にも泣き出しそうに歪んだ愛しい少女の顔。


「まゆ...ちゃん」


 胡乱げな眼差しで宙を見据える少年。


 自我を崩壊させてまで守った暖かい欠片は、人ならざる者らの支配下に陥っても雅裕の心から消えなかった。


 白い影らが凶悪な雰囲気を醸して、ざわめいている。


 完全に心を渡しはしなかった雅裕。


 こうして彼の人ならざる新たな人生がスタートした。




「ここか。まあ、普通かね」


「本当にあるのか? そんな地下施設」


「確認するだけしてみようや。あったら儲けものだしな」


 柄の悪い男達がたむろうのは件の廃病院。


 貴裕を先頭にしてやってきた彼等は、貴裕が父親から手に入れたという青写真を持って林の中から現れた。


 諸々の諸事情があり、真っ当な道を外れた貴裕は、父親から生前贈与として奪い取った廃病院の秘密を聞き出している。

 そこで何があったのかも。


 兄さん。


 忽然と姿を消した兄を貴裕はずっと探していた。突然行方不明になった兄、雅裕。

 幼いころは意味が分からなかった。

 しかし成長し、世間の噂や両親の言い訳を聞くうちに、その齟齬に気がついた彼は、両親を脅迫めかして犯罪的な事実を突き止めたのだ。

 それに協力してくれたのは、今、自分と共にいる仲間達。

 人目を憚る後ろ楯を持つ彼等は、貴裕から病院の地下にある栽培施設の話を聞き、快く協力してくれた。


 打算まみれな親切である事を、貴裕は百も承知。


 それで兄の行方を辿れるならば、悪魔にだって媚を売る覚悟が貴裕にはある。

 そして彼等の協力のもと、貴裕は両親から自白と病院の権利を奪い取る事に成功したのだ。

 最後に病院を訪れたのは二年前だと父親は言っている。

 衰弱したうえ檻に閉じ込められたまま、二年。もはや生きてはいまい。


 もっと早く辿り着けていれば.....っ


 両親から話を聞き出すのが遅すぎた。


 元々、夫婦仲は良くなかったが、兄が行方不明になってからは、さらに険悪になった二人。

 前なら、兄と共に外へと逃げ出せた貴裕も、今は両親に見張られ逃げ出しようがない。

 大人しく従いながら、貴裕は従順な振りをして両親を探った。


 兄の事を尋ねる度に、煩わしげに眉を寄せる父。無言で俯く母。

 彼等の違和感を看破するには、貴裕は子供過ぎた。

 不協和音の流れる家庭で宿無れ、道を踏み外した貴裕は、質の悪い仲間と付き合いだして、激怒した両親から勘当される。


 その時に父が口を滑らしたのだ。


「お前までかっ、俺の息子は揃いも揃って出来損ないばかりかっ!」


「出来損ないだぁ? 兄さんもか?」


「アレはキチガイだった! 死んでくれて清々したのにっ!」


 貴裕の眼がカッと見開く。


 今、なんつった??


「死んで清々した? 行方不明って話じゃなかったか?」


 剣呑な眼差しで貴裕は父親の胸ぐらを掴んだ。そして鼻先が触れ合うほどの至近距離から睨めつける。

 己が口を滑らした事に気づいた父親は、貝のように黙り込んで何も話はしなかった。


 貴裕は仲間に相談し、肉体的言語の話し合いを用いて、両親が過去にやらかした大罪を聞き出したのだ。


 結果、貴裕は勘当。親の犯罪を秘匿する対価に廃病院の権利を奪い取る事に成功する。

 両親は己らの悪事が露見する事を恐れ、病院を所有したまま放置していた。


 しばし前の両親とのやり取りを脳裏に描き、貴裕は片手に花束と線香の入った買い物袋を下げて、静かに兄の墓標となっただろう廃病院に向かう。

 その神妙な後ろ姿は何ともいえぬ憐憫を醸し、普段、荒くれで人の痛みにも無関心な貴裕の仲間達らすら、思わず軽口を慎むほど痛ましい後ろ姿だった。


 悄然とする貴裕は知らない。この後、奇跡の邂逅が果たされることを。




「まさか......」


 父親から奪った青写真にあるとおり、貴裕は配管室の点検用通路からダストシュートに入り、霊安置室の隠し扉を開けた。

 するとそこには明かりが見え、奈落のように深い穴からは暖かな空気が上がってくる。縄梯子も下がったままだった。


 今は冬半ば。ありえない事だ。


 固唾を呑む仲間達と共に貴裕は、縄梯子で地下へと降りていく。


 そして呆然。


 薄暗い通路を抜けて、いくつかの部屋を通り抜けた先にあったのは広い栽培エリア。

 学校の体育館ほどの広さはあろうか。

 その畑区画は耕され、様々な植物が植わっていた。


 ここは過去に食用植物が栽培されていた施設である。

 倉庫の中には、当時の種などが残されており、その中の幾つかが発芽し、こうして新たな畑となったのだ。

 そんな事を知らない貴裕達は、ただ呆然と畑に踏み入った。

 青々とした野菜達。どれも、しっかりと育ち、中には実をつけているモノもある。

 無意識に熟れたトマトに触れつつ、貴裕は一瞬、背筋を凍らせた。

 どこからか視線を感じる。冷たく刺すような眼差しを。

 それは仲間達も同じだったようで、反射的に振り返った彼等は、視界の中に人影を見た。

 薄暗がりで壁にもたれるように佇む人影。


 そうだよ、こうして畑があるという事は、これを育てている者がいるはずじゃないか。


 思わず顔に浮かぶ歓喜を隠しもせず、貴裕は、気配の薄い人影に駆け寄った。


「兄さん?」


 探るように発された貴裕の言葉に、薄暗がりの人物がピクリと反応する。

 その前に進み出て、さらに貴裕は言葉を紡いだ。逸る心を抑え切れない。


「兄さんなのかい? 僕だよ、貴裕だよ。分かる?」


 今にも触れ合えそうな距離まで進んだ貴裕の差し出していた手の指が、いきなり目の前を一閃した何かに落とされた。


「え?」


「貴裕ッ!」


 スローモーションのようにコトンと音を立てて床で跳ね返る指。


 迸る血飛沫と仲間の叫び。一瞬の間をおいて走る激痛。


 あまりの驚愕で、貴裕は声もなく踞った。


「ーーーーーーーっ!」


 焼けるような痛みがジンジンする手を胸に抱え込み、貴裕は信じられないといった眼差しで相手を見上げる。

 その眼に脆く揺れる瞳は、すがるような光を宿し、まるで赤子のごとく何かを求めていた。

 いったい何を求めているのか、本人にも分からない。


「う....っ、嘘だ。兄さんだろ?」


 激痛は脊髄まで駆け回り、その全身を貫いていた。

 薄目で確認すると、第二関節あたりから中指と人差し指が消えている。

 生々しい傷口からは、未だにドクドクと赤い血が滴っており、燃えるような熱を帯びて感覚が無かった。

 それを見て、貴裕の仲間達が眼を見開き、絶叫する。


「ふざけんなっ、なんなんだよ、これっ!」


「てめぇっ、何してやがんだっ?! いきなり切りつけるなんて、頭がおかしいんじゃないのかっ? このキチガイがっ!!」


 キチガイ。


 その一言が貴裕の頭に警鐘を鳴らす。ピキンっと脳内にシグナルが走った。


 『あいつはキチガイだった!』


 心ない父親の叫び。


 ズカズカと大股で暗がりの人物に詰め寄ろうとした仲間を抑え、貴裕は痛みに冷や汗をたらしつつも、再び言葉を紡ぐ。

 張り付けた微笑みだが、それは作られたモノではない。

 目の前に探し求めた兄がいるのだ。

 全身を貫く激痛などモノともせず、笑みがうかぶ。この痛みとて、兄が与えてくれたモノだと思えば、嬉しいくらいだった。

 生きて、動いているからこそ与えられた痛み。そう、兄さんは生きていた。


「兄さん。もう、父さんは来ない。知ってるだろう? 兄さんは少し頭の構造が人と違うだけなんだ。キチガイなんかじゃない」


 その言葉は仲間に向けたモノでもある。

 言われた意味を理解し、一人の男が声高に叫んだ。


「あぁあ? 突然、刃物で切りつけてくる奴だぞっ? おまえの兄貴かも分からな....」


「.....黙れよ。あ?」


 血塗れな手で仲間を抑えながら、貴裕は薄く陰のおりた顔で辛辣に眼を剥いた。

 その眼に灯る獰猛な光に、仲間の男達も慌てて押し黙る。


 彼等が貴裕を仲間にしたのは、この眼差しのためだ。

 何とも表現しがたい荒んだ瞳。何もかもを諦めて、自棄と渇望を同衾させた狂気の眼差し。

 まるで野獣のように何もかもを求め、何もかもを壊し、何もかもに無関心。


 ただ、そこに在るだけの抜き身の刃の如く、貴裕は、ぬらぬらと薄く笑んでいた。


 いや、ある意味、病んでいるのか。


 その脆く曖昧な貴裕を放っておけず、彼の仲間達は貴裕を囲い込んだのだ。


 彼等が貴裕と初めて会ったのは、貴裕が中学生の頃。

 肩で風を切りたい御年頃な連中が、貴裕一人を相手に血の海に沈んでいた。


 今、思い返しても震えがくる。


 貴裕の仲間らは誰もが不遇な生い立ちだ。親の虐待、家庭不和、借金、薬剤、何でもござれなオンパレード。

 そんな似通った生い立ちからくる、滑稽な仲間意識。

 裏街道まっしぐらに爆走中な彼等が、唯一守りたいモノ。それが貴裕である。


 メスを両手に、同級生らしい奴等を切り刻んでいた貴裕。

 恍惚とした面差しにギラつく冴えざえとした瞳。


 その無感動な貴裕の眼差しに、彼等は自分達の幼少期を重ね合わせた。


 凍った瞳。


 これは虐待を受けたり、不遇な生い立ちの者ら特有の瞳を表す言葉だ。

 何もかもを諦め、何もかもに無関心。

 ここに貴裕は、《壊す》を入れている。精神的に、かなりヤバい状態だった。


 心の拠り所の兄を失い、貴裕は少しずつ時間をかけて壊れていった。

 成績以外、何事にも無関心な両親。そのくせスポイルしようと必死な母親。

 病院の跡を継がせようと、嫌がる貴裕に手術を見学させ、見せつける父親。


 最初は嫌々だった貴裕だが、しだいにその鮮明な人体の内部に惹かれていく。

 そして、如何に効率良く、かつ綺麗に人体を壊せるか。

 まるで玩具をもらった子供のように、貴裕は攻撃してくる相手を分解していった。


 そんな彼の好む獲物はメス。


 使い慣れたソレで、的確に相手の筋を断ち、四肢を動かせなくなった獲物に舌舐めずりする毎日。


 すでに狂気の色を見せつける凍った瞳。


 それを発散させるため、彼等は貴裕を仲間にし、裏の仕事を手伝わせた。血生臭い事も多々ある職場である。

 ぶっちゃけ、門前の小僧よろしく腕の良い外科医並みの器量を持つ貴裕は、とても重宝された。


 数多の人間を切り刻む日々。


 結果、貴裕は小康状態を保てるようなり、たまにだが、仲間に無邪気な笑顔も浮かべるようになったのだ。

 自分達の不遇を貴裕に重ねていた男達は、少しずつ感情豊かになる貴裕が可愛くて仕方無い。 

 皮肉も憂いも憎しみもない、そんな素朴な笑顔に一喜一憂していたのに..........


 また...... 逆戻りかよ。


 男達は砕けそうなほど奥歯を噛み締める。


 そんな彼等の視界で、貴裕は未だに暗がりへ話しかけていた。

 切々と昔話を続け、雅裕に思い出させようと必死な貴裕。


「俺さ、覚えてるよ? 兄さんと何時も一緒だった女の子。短い癖っ毛でさ、三人で池のフナを釣ったりさ。それを解剖したりとか」


 すると貴裕の言葉に反応があった。


 暗がりの人物が首を傾げ、ゆるゆると奥から出てくる。


 ボサボサの長い髪に、薄くて柔らかそうな無精髭。ブカブカな作業服を身に纏い、余ったズボンの裾を何回も折り曲げていた。

 その右手には小振りな鉈。鋭利な刃を染めている赤い染みが、貴裕の指を切り落としたのは俺だと自己主張している。


「ま...ゆちゃん?」


 虚ろな眼に片言な口調。


「そうっ、そうだよ、まゆちゃんだ! よく遊んだよね?」


「遊ん....だ。まゆちゃん。....だれ?」


 胡乱げに見つめられ、貴裕は固唾を呑む。


「貴裕だよ。兄さん。弟の貴裕」


 自分を指差して、貴裕はゆっくりと話しかけた。


「たかひ...ろ?」


「そう、そして兄さん」


 貴裕は雅裕を指差す。


「ボク...まぁ君。 で...も? にいさん?」


 どうやら完全に人格の破綻が起きているようだ。そりゃそうだろう。こんな所に八年も一人きりで居たのだから。

 発狂していても、おかしくはない。


 微かに残る記憶は、あの女の子か。


 彼女の事は貴裕も良く覚えている。

 優しくて明るくて、とても可愛らしい少女だった。たまに御菓子とか持ってきて、みんなで仲良く食べたっけ。

 うちは虫歯になるからと、食後のデザートの果物以外食べさせてもらえなかったからなぁ。

 あの御菓子は、涙が出るほど美味しかった。


 そんな益体もない事を脳裏に浮かべつつ、貴裕は静かに言葉を紡いだ。


「もう大丈夫。俺が兄さんを守るから。檻に閉じ込められてたって聞いてたけど出られたんだね。本当に良かった」


 血塗れな両手を広げて、貴裕は静かに雅裕を抱き締めた。


「たかひろ?」


「うん」


 まるで幼児のような片言。それでも生きていてくれただけで十分だった。

 はらはらと声もなく涙をこぼし、貴裕は八年ぶりの再会を噛み締める。


 その横で、貴裕の指を拾い、大切そうに手持ちの袋にしまう仲間達に気づきもせずに。


 持ち帰った指を自分で縫合してしまった貴裕に、仲間が絶叫を上げたのは言うまでもない。

 幸い、手入れの行き届いた鉈だったため、綺麗な切り口は不具合なく接がれたが、仲間らの冷や汗は止まらなかった。




 後日、貴裕らは何とかして雅裕を外に連れ出そうと試みるが、雅裕は頑として地下から出ようとしない。

 縄梯子を上がろうともせず、肩のずり落ちる作業服のまま、農作業にせいを出していた。

 どうやら倉庫に残っていた物を使い回しているみたいで、繊維の脆くなった作業服は穴ボコだらけ。

 水浴びしかしていない身体はガサガサのパリパリ。

 まるで原始人のような有り様だった。


「どうするよ?」


「どうしよう」


 呆れたような眼差しの仲間に、貴裕も途方に暮れた顔をする。


 初めてみせる年相応な顔。


 それに人の悪い笑みを浮かべ、仲間達は廃病院を雅裕の棲み家とし、定期的に物資を供給するようになる。

 さらに事情を知った質の悪い連中が、雅裕と栽培エリアに仕事を持ち掛け、壊れた兄弟は安定した収入を得るようになった。


 誰も知らない秘密の隠れ家。


 そのはずだったのに、しばらくして雅裕が閉じ込められてたという檻を確認した貴裕は、細切れになった数人の屍を発見した。


 どうやら地下に迷い込んだ馬鹿野郎様のようだ。


 ああ、それで兄さんは問答無用で切りつけてきたのか。

 縄梯子が下がっていたのも、こいつらだろう。警戒していたんだな。


 二人の大切な秘密基地。


 もう、二度と誰にも邪魔はさせない。


 憂いを帯びた瞳で、貴裕は眉を寄せる。その顔は、八年前同様、兄を失い泣きわめく幼児の顔だった。

 こうして、全ては密やかに行われ、誰にも知られぬはずの地下農園が作られる。

 肥料や腐葉土など必要な物資も持ち込まれ、静かな山奥の廃病院は、貴裕やその仲間達に守られた。


 春のさわり、一人の女子高生が林の中から廃病院に迷い込むまでは。


 二人の兄弟は、ただ共にありたいだけだったのに。


 妖の掌に踊らされ、兄弟の末路は血塗られた綱渡りへと変貌する。

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