第3話 ~敦~


「ひいぃぃっ」


 憐れに怯え、劈くような悲鳴が辺りに響く。


 閉じ込められた部屋の中で、敦は涙目なまま耳を塞いでいた。


 彼の脳裏を占めるのは、多くの少年らが閉じ込められている檻と、無造作に転がる古びた骨。それを齧っていたネズミ。

 人の成れの果てな人骨や、服の残骸。閉じ込められた檻の中で震える少年達。

 敦はこの世のものとも思えぬ悪臭に怯え竦み、身体を強ばらせていた。


 もう、勘弁してくれ。


 人間の住み家とは思えぬ凄惨な光景。歪み捩れた世界。


 ここは地獄の従卒が棲まう場所。




 夏のあの日、敦は廃病院の周りを徘徊していて、見知らぬ男らに捕まった。


 どこか入れる所はないかと探していた敦は、ふと配管用の扉が開いているのに気がつく。

 覗いてみると配管の奥が明るい。

 一見、柱にも見える入り組んだ配管の裏には、梯子が隠されており、それはそのまま、地下へと穿たれた配管に沿って、ずっと続いている。

 しかもその配管は壁に埋まっているようにも見える複雑な配置で、それと知らずに見ても分からない作りになっていた。

 穿たれた地下からの不可思議な光芒がなくば、敦とて、その存在に気がつかなかっただろう。

 そして怖じける気持ちを抑えつつ、恐る恐る怪しげな穴を覗き込んだ瞬間。敦は複数の腕に捕まれた。


 左右から伸ばされた屈強な腕。


「ひっ?!」


 まるでホラー映画のワンシーンのようで、思わず敦は短い悲鳴をあげた。

 しかし、掴んだのは生身の人間。

 一瞬、幽霊かと思った敦は、人知れず安堵の息をつく。


 だがこの時、彼は、もっと周囲を警戒すべきだった。


 この配管室に足を踏み入れた時に感じた悪寒。そこかしこに転がる悪意に、もっと敏感になるべきだったのに。

 彼が今まで送ってきた平和な日常は、そういった本能が叫ぶ警鐘を錆び付かせている。


 穿たれた穴から梯子を上ってきたらしい男や、配管の物陰に隠れていたらしい男達。

 ざっと見て六人ほどか。その誰もが据えた眼差しで敦を見ていた。

 何の感情もない極寒の視線の集中放火に、敦は訳もわからず黙り込む。

 見られているだけなのに、その重圧が半端ない。カタカタと震える膝下が彼の切羽詰まった状況を物語っていた。

 言うならば、俎板の上の鯉。そんな諺が敦の脳裏を過る。


 明らかに堅気ではなさそうな、風貌の男達。


 敦の心臓が別の意味で、バクバクと高鳴り、跳び跳ねる心臓が口から飛び出さないよう、彼は奥歯を噛み締めた。


 そんな敦の焦燥を冷たく一瞥し、一人の男が煙草に火をつける。


 他の男性らより、頭半分大きい男。

 その男は、煙草のフィルターを噛み潰すように口角を歪め、獰猛に歯を見せて嘲るように嗤った。

 猛獣に見つめられる草食動物の気分とは、こんな気分だろうか。

 切羽詰まり神経を尖らせている反面、それを画面ごしに見るような、客観的な自分もいて、不思議な感覚の敦である。

 紫煙を燻らせる男は、面倒臭げに髪を掻いて、吐き捨てるように呟いた。


「なんだ? コイツ」

「さあ? 取り敢えず、ここを見られたからには放っておけん。行くぞ」


 そう言うと、男達は敦を縛り上げ、配管の裏の穴に突き落とす。

 梯子のある配管は緩やかな傾斜を描いており、敦は、まるで童話のおむすびのように転がっていった。


「うえっ? わあぁっ」


 スライダーのように斜めな梯子を転がり、酷い音をたてて尻餅をついた敦が周りを確認すると、彼が落ちた場所は霊安置室のダストボックス。

 なんと配管の裏の梯子はダストシュートに繋がっていたのだ。

 薄暗く、湿った空気に満ちた四角い部屋。いや、場所か?

 元々、ゴミの集まる最下層。何年たっても消えない据えたゴミの臭いが敦の鼻腔をザラリと撫で回した。

 それも仕方無いだろう。病院のゴミを一手に集め、地下の焼却炉で処分する場所なのだから。

 現在なら顰蹙ものだが、数十年ほど前には個人的な焼却処分は当たり前にあった事らしい。

 霊安置室のダストボックスから出てきた男達は、さらに奥の隠し扉へ敦を引きずっていく。


 ぽっかりと開いた隠し扉に、奈落の底まで続くような深い穴。

 今にも何かが這い上がってきそうな不気味な暗闇に、敦の錆び付いた警鐘が錆び落としを始めたようだ。

 チリチリとうなじを走る静電気。さすがの敦にも、これが行方不明事件の裏側なのだと理解出来る。

 多くの被害者らは全てここに連れ込まれたに違いない。


 つまり、このまま行けば...... 敦も行方不明者の一人に名を連ねるのだろう。


 涙目な敦を引きずり、男らは縄梯子を降りていく。


 今回は突き落とされなかったが、後ろ手に縛られたまま縄梯子をおりるのは至難の技である。

 つま先で必死に梯子を探り、敦は冷や汗だらけだった。


 なんの罰ゲームだよっ!


 一緒に降りてきた男らに服の襟首を捕まれ、吊られたまま、敦は半泣きで長い縄梯子を降りていった。

 ほうほうの態で、暗闇を降り、真っ暗な通路を連れ歩かれ、更にまた縄梯子を降りていく男達。


 真っ暗闇で何がなにやら分からない敦を、再び男達が引きずっていく。

 よくぞ足を踏み外さずに降りられたものだ。敦は全力で自分を誉めてやりたい。

 そして改めて周囲を確認した。


 ここは一体なんだろう? 地下にこんな場所があるなんて。


 引きずられつつも、敦は物珍しげに辺りを見渡した。

 上の病院と良く似た作りの施設。けっこう近代的な空間だった。


 だが、何かが腐ったかのように据えた匂いが充満している。比較的綺麗な通路にみえるが、何かあるのだろうか?


 ただ事ではない異臭の元が、実は元人間なのだとは知らない、幸せな敦である。

 少し外れた先の迷路に重なる細切れな肉片の山。白い蛆虫が無数に蠢きポタリと落ちる惨状。

 うぞうぞと床を這う白い虫は、誰に気づかれる事もなく、腐って蕩けた汚濁の中を、喜色満面で泳ぎ回っていた。




 迷路のような薄暗い通路を延々と引きずり、男達は少し広めな部屋に入る。

 薄暗く奥が見えない細長い部屋。

 眼をこらす敦をあからさまに失笑し、さも愉しげに男達は肩を揺らした。

 そして後ろ手に縛りあげた彼を突き飛ばして、男らの一人がうっそりと嗤う。

 敦と変わらないくらいの若い男。今時珍しい黒髪短髪な男は、敦の背中を踏みつけながら、奥の暗がりに話しかけた。

 ニタニタと愉悦のまろびる嫌な笑み。


「新しい玩具だよ、兄さん」

「..........」


 暗がりの中にいる人物は、ぎぎぎっと音が聞こえそうなほど、ぎこちない動きで、こちらを振り返る。

 長い髪をボサボサにした男はギラついた眼で敦を凝視し、次にはニタリと口角を捲り上げた。

 不均等に歪む口角と獰猛に剥き出された歯茎。

 その獣染みた眼差しは、真っ当な人間の持つモノではなく、ぞわぞわした悪寒が敦を襲う。全身が総毛立ち小刻みに震えていた。


 まるで死人のような男。煤けてボロボロな作業着をまとい、伸びっぱなしな髪や髭はゴワゴワに絡まっている。

 男は昔の映画に出てくるゾンビのような風貌で、ゆらりと立ち上がり、こちらに近づいてきた。


 コトンっ、カクンっと一歩ずつ距離を詰めてくる男。


 コイツはヤバいと、本能が錆び落としをした警鐘を鳴らしまくっている。再び笑い出した膝が、今にも崩折れそうで、敦は恐怖に歯の根も合わない。


 見た感じ男だろう程度の判断はつくが、まるで雪男のように毛むくじゃらなその姿は、若いのか年寄りなのかすら全く分からない敦だった。

 動きも緩慢で、まるでブリキのオモチャのよう。武骨な手は大きく硬い感じがし、何かと問えば農夫や狩人みたいな印象である。

 ただ、爛々と輝く不気味な双眸だけが、彼はまだ生きた人間なのだと伝えていた。


 これで生きていると言えるのならばだが。


 暗く濁った死者のような瞳。


 凍りつく敦の腕を掴み、毛むくじゃらな男が無造作に引きずっていく。

 思わず泣き叫ぶ敦を嫌らしい眼で一瞥し、黒髪短髪の男は、興味もなさげな眼差しで奥に消える二人を見送っていた。



「どっ、どこへ? うわあぁぁっ」


 ジタバタとがむしゃらに暴れる敦。それを黙らせようとでも思ったのか、毛むくじゃらな男は拳を振り上げる。


 殴られるっ?!


 思わず身をすくませて、敦は絞り出すように呟いた。


「.....万由っ!」


 ごめんっ、おまえの言う通りに引き返せばよかったっ!!


 来るべき衝撃に身構えていた敦だが、一向に殴られる気配がない。

 怪訝そうな彼が、うっすらと眼を開くと、そこには拳を振り上げたまま固まる男がいた。

 茫然と不思議そうな顔をした男は、眼元しか確認出来ないが、その眼は見開かれ、先ほどまで浮かんでいた残忍な光が跡形もなく消えている。


「..........?」


 そして、おずおずと見上げる敦の鼓膜に、信じられない言葉が届いた。


「.....ま..ゆちゃん」


 え?


 敦は驚愕に顔を強ばらせる。言葉を理解した瞬間、全身の体毛がぶわっと逆立った。髪の毛まで逆立っている気がする。

 えもいわれぬ、おぞましい悪寒が一気に脳天まで貫いていった。


 なんで、コイツが万由の名前を? いや、俺の知ってる万由と同一人物とは限らないが。


 ここから、毛むくじゃらな男と敦の妙な暮らしが始まった。




「なんというか..... うん」


 あの日から、敦は居住区らしい一室へ投げ込まれ、閉じ込められている。


 いったいここは何なのか。


 部屋の中には簡易ベッドと洗面台。あとは用を足すための穴だけがあった。

 電力も供給されているようで、明りもつくし、水も使えた。非常に簡素な造りだが過不足はない。

 こんな状況だ。贅沢は言えないし言うまい。せめてシャワーくらい欲しいなと脳裏に過りつつも。


 そして、ときおり毛むくじゃらな男が食べ物を持ってきて、じっと敦を見つめる日々が数日過ぎた。

 その食べ物がまた。生のピーマンやプチトマト、ホウレン草などなど。


 あの見てくれでベジタリアンなのかよ。せめて丸ごとじゃなく切ってもらえないかな。


 愚痴ぐち言いつつ洗面台で洗って食べていた敦だが、流石にウサギじゃないんだから、これだけでは足りるわけがない。


 ダイエットとか要らないから。俺って痩せの大食いだし。


 そんな益体もない事を考えながら、たぶん朝夕に来ているのだろう毛むくじゃらな男に敦は思いきって話しかけた。


「あのさ。米とかパンはないかな?」


 出逢いは物騒この上ない初対面だったが、この数日で敦は毛むくじゃらな男に慣れ始めていた。

 男は敦に危害を加えない。男が一緒なら、敦を部屋の外にも出してくれる。

 居住区らしいあたり以外からは出してくれないが、それでも閉じ込められたままより、ずっとマシだ。

 いくらかの慣れと惰性。人間とは図太い生き物なのである。


 じっと敦を見る男。こうしていると、最初の時のゾワゾワする狂気は見えない。

 あの醸し出された刃のような恐ろしい雰囲気は、敦の勘違いだったのだろうか?

 今思えば、物騒な男らに拉致され、神経が過敏になっていたのかもしれない。

 この見てくれも手伝い、変な幻覚が見てえていたのかも。


 この時敦は、錆び付いた警鐘から、必死に錆を落とした己の本能を信じるべきだったのに。

 何の疑問もなく、彼は相手への警戒心を解いてしまった。


 しばし思案して黙り込む毛むくじゃらな男。手の甲や目元の肌の張りをみると結構若そうである。

 こんな所に閉じ込められて、いったい何をしているのか分からないが、少なくとも敦に敵対行動を取ったことはない。

 ただ時々、敦を見つめながら、まゆちゃんと呟くのが謎ではあるのだが。


 男は、話しかければ、じっと聞いてくれる。


 そしてしばし考え込んでから、ゆっくりと口を開くのだ。

 その態度の端々に見える、処理落ち風な無言。

 たぶん、これは知的障害があるのだなと、敦は正しく彼の事を理解していた。

 だから急かす事なく、男が口を開くのを辛抱強く待つ。話し慣れていないのか、その言葉は辿々しい片言。

 それでも敦の問いに答えようと努力してくれている姿に、少しほっこりする敦である。


 これまでの経緯を知った誰かが見れば、きっと唖然とするに違いない。怖いもの知らずにも程があろう。


 そんな平和ボケ人間を見下ろし、男は辿々しく答えた。


「ある.... 今、ない」


 ある? でも、今はない?


 どういう事だろう。


 訝る敦。だが、その答えは数日後に分かった。血生臭い惨劇と共に。



「きた。......これ」


 毛むくじゃらな男が持ってきたのはビニール袋に入ったカレーパン。


 は? これ市販品だよな?


 見れば男の手には大きな買い物袋があり、その中に沢山のパンやお握りが入っている。

 敦にもお馴染みな有名メーカーの食品達。


 買い物にでも行ったのか? その形で?


 ボサボサな髪に繋がる髭。着ている物も浮浪者のようにボロボロな服。入浴や洗濯はしているようだが、一見して悲惨なことこの上ない風貌。


 でも、まあ、食べ物は有難いな。


 男からパンを受け取り、久し振りの文明的な食べ物に固唾を呑む敦を、いきなり誰かが突き飛ばした。


「なんでっ? こんな部屋あるのかっ?」


 突き飛ばしたのは敦と変わらないくらいの青年。着た切りで何日もたったような据えた匂いをさせ、髪の毛を脂でギトギトにした姿は、毛むくじゃらな男と良く似ている。


 青年は部屋を見渡してから、ぎんっと敦を睨めつけた。

 今にも燃え上がりそうな憎しみを込めた眼差しで。


「なんで、おまえだけ、こんな良い暮らししてるんだよっ!」


 良い暮らし?


 閉じ込められ、洗面台の水で頭や身体を洗い、適当に水で洗濯して生乾きな服を着る今の暮らしが良い暮らしなのか?


 思わず眼を半開きにしてしまう敦だが、言われて見れば目の前の少年は、中々に悲惨な出で立ちだ。

 髪も身体も、長期にわたり洗われていないのは一目瞭然。さらに手もガサガサで、衣服も汚れきっている。

 毛むくじゃらな男の方が、まだ清潔感があった。


「何とか言えよっ!」


 無言で思案する敦に、浮浪者のような少年が掴みかかるが、その手が敦に届くことはなかった。


 伸ばした少年の手に刺さる一本のナイフ。


 深々と刺さり、甲から掌を突き抜けている鋭利な刃物に、思わず眼を凍りつかせた敦と少年。二人は同時に悲鳴をあげた。


「「うわああぁぁぁっ!!」」


 続けて絶叫をあげている青年の頭を掴み、毛むくじゃらな男は眼を血走らせて、その青年を床に叩きつけた。

 何かが砕けるような鈍い音が辺りに響く。床で呻く青年は、激痛に揉んどり打っていた。

 ガクガクと震え、涙目な青年。


 それを疎ましげに見下ろす毛むくじゃらな男の双眸に浮かんでいるのは、出逢った時に見た、濁った死者のような瞳。


 思わず敦の背筋に鋭利な氷柱が刺さる。ドスドスと何本も。


 凍りついて固まる身体は、縫い付けられたかのように動けない。

 見開かれた敦の視界で、毛むくじゃらな男は、忌々しげな声で穿つように呟く。


「......うるさい」


 そしてナイフを無造作に引き抜くと、絶叫する青年を滅多刺しにし始めた。

 獲物の必死の抵抗を易々と押さえつけ、ヨダレをこぼさんばかりに恍惚とした面差しの男。


 ひゅっと息を呑み、敦の気管が急速にしぼむ。呼吸もままならない喉は、その奥で迸った絶叫すらをも呑み込ませる。


 抉るかのように肉に刺さる刃物。あきらかに獲物の抵抗を楽しんでいるその仕草。

 裂ける肉の感触が相手に伝わるよう、ゆっくり、じっくり動かされるナイフ。

 迸る絶叫が、その悶絶な苦痛を周囲に知らしめていた。


 飛び散る血飛沫。耳にこびりつく断末魔。


 敦は腰を抜かして床にへたりこみ、眼を凍らせたまま、言葉もなくそれを見つめ続けていた。




「片付け....ろ」


 物言わぬ肉塊と成り果てた青年。


 あらゆる所がナイフで抉られ、原型を保っている場所はなく、さらに血糊がべったりで、その顔すらも判別不可能。

 生きたまま鼻をそがれ、耳を落とされ..... 死が救いになるだろう、凄惨な光景。


 未だに目の前で起きた事が理解出来ない敦。


 いや、理解は出来るのだが現実味が無く、まるで画面ごしに映画を見ているような気分だ。

 今になって部屋に充満する生々しい鉄の臭いに、敦の胃袋が逆流する。


 横たわる無惨な遺体は本物。


 それを血塗れの姿で見下ろし、毛むくじゃらな男は感情の起伏もなく呟いた。

 すると扉の外から数人の青年らが入ってくる。


「え?」


 一部始終を見ていたのだろう。その顔は青を通り越して真っ白だった。

 それでも男の言う通りに、ズタズタにされて事切れた被害者の遺骸を、慣れた手つきで運び出していく。


「ちょっ、待って?」


 なになに? 俺ら以外にも人がいたのっ?


 だが入ってきた彼等は、敦と視線を合わせもせずに、そそくさと出ていった。


「汚れ....た。こっち」


 茫然とする敦の手首を掴み、毛むくじゃらな男はズカズカと廊下を歩いていく。

 そして連れて来られたのは大きな空間。初めて来る場所だ。

 煌々とした明かりの下では青々とした植物群が栽培され、その一角には野菜畑もあった。


 だだっ広い栽培区画。


 唖然とする敦の視界で、何人かの青年がチラチラと敦達を見ながら働いている。


 いつも持ってくる野菜はこれか。


 何の植物が分からないが、見事に生い茂る植物らを見渡して、敦ははたっと我に返る。

 何故ならそこに、敦を捕まえてここに連れてきた男どもがいたからだ。

 無意識に敦は背筋を震わせ立ち止まった。

 声高に談笑していた男らも敦に気付き、信じられないモノを見る目で近寄って来る。


「はあ? おまえ、なんで生きてるんだ? 兄さん、これはどういう?」


 以前、敦を踏みつけた短髪の男が怒りも顕に敦の髪の毛を鷲掴んだ。

 いくらかの髪の毛が引きちぎられ、男は敦の頭を振り回す。

 痛みに顔を歪める敦を楽しそうに眺める男。

 だが、それを毛むくじゃらな男の手が止める。

 毛むくじゃらな男は、怪訝そうに見上げる短髪の男を見つめ、小さく首を振りながら呟いた。


「まゆ.....ちゃん」

「あぁん? これが?」


 ぎこちなく頷く毛むくじゃらな男。


 ちっと舌打ちして、短髪の男は敦から手を離した。


「まあ、雅裕兄さんの好きにしたら良いさ。ここは兄さんのモノだし、どうせ誰も出られないんだしな。追加を連れてきたから、兄さんが躾て使ってやってよ。今回の商品も良い出来だ。ありがとうな」


 短髪の男は拳の裏で毛むくじゃらな男の胸を叩き、然も嬉しそうに肩を組んだ。

 毛むくじゃらな男が血塗れなのも、然して気にしていない雰囲気に敦は絶句し息を呑む。

 周りの男達も平然としていた。


 そして敦の脳裏を占めたのは、先ほどの凄惨な出来事ではなく、目の前の二人の親しげな関係。


 兄さん? 兄弟なのか? この二人。


「良か....った。たかひろ」


 うっそりと嗤う男。


 まさひろ、たかひろ。兄弟っぽいな。


 しばし聞き耳をたてていた敦は、ふいに以前聞いた話を思い出した。

 万由を長年苦しめているトラウマの話。それを敦が知ったのは、つい最近。

 長く彼女を苦しめてきた幼い頃の過ちを知る敦は、それを理解しようと、ずっと万由に寄り添ってきたのだ。

 その中に出てきた行方不明の少年。その名前が確か......


 みるみる見開いていく敦の眼が、信じられないモノを見る眼差しで毛むくじゃらな男に引き寄せられる。


「.....まぁ君?」


 憮然と呟く敦の言葉に一瞬眼を丸くし、雅裕と呼ばれた男は、大きく破顔した。

 それに驚いたのは貴裕と呼ばれていた短髪の男。


「マジで関係者かよ」


 忌々しげな光を瞳に浮かべ、貴裕は敦を辛辣に見据えた。視線で人が殺せるかと思うほど怨嗟のこもった残忍な眼差し。

 殺気と言うも生ぬるい雰囲気に、敦の全身が震え上がった。


 奇妙な暮らしは血塗れの様相を帯び、次々と殺される犠牲者の屍に彩られていく。




「たっ.....っ、助け....っ、ぎゃあぁぁっ」


 雅裕の餌食となった青年が、壁にへばりついてしゃがみこむ敦へ必死に手を伸ばす。


 だが、伸ばされた手は敦を掴めない。


 何故なら、その手には指が一本も残っていなかったからだ。


 敦は、ガタガタと全身を震わせて壁に張り付き、丸まっていた。


 ここは地獄の一丁目。


 時々、何かの拍子に、場は陰惨な鮮血に染まる。


 今回は逃げ出そうとした青年が標的になった。ここに来て、まだ一ヶ月ほどの者だ。

 どうやら、ここには常に何人かの青年らがいて、雅裕の栽培の手伝いをしているようで、その生活は悲惨なモノだった。

 着た切り雀で働き、僅かばかりの食事を貰う。

 寝床は檻の中に並んだ三段ベッド。基本的に、この檻を住み家としているようだ。

 昼の時間は明かりがつき、夜の時間は消される。その間、彼等は檻の中に閉じ込められ施錠されていた。

 檻の中は不潔極まりなく、薄い毛布しか置かれていない。床に散らばる何かの骨が、人骨なのだと敦が知ったのは、かなり後だった。

 うっかりすると、頻繁に徘徊するネズミに齧られるため、熟睡もままならないらしい。


 敦の部屋で惨殺された青年が、良い暮らしと敦を毒づいたのも納得だ。

 敦以外の少年らは、家畜以下の生活をしているのだから。

 それも死と隣り合わせの綱渡りみたいな生活を。

 ときおり、何の前触れもなく雅裕の狂気が発露し、その片鱗に触れた者を惨殺する。

 何が引き金になるのか全く分からないが、少なくとも雅裕は静寂を好むようで、大きな音や声を嫌う。

 だから彼等は、始終無言。黙々と働く彼等は雅裕に怯え、全く言葉を発っさない。


 そして時々やってくる貴裕が、食料と人手の補充をしていく。

 人数を確認して、足りなくなっている分を次回に連れてくるローテーションらしい。


 今回の被害者は、仲間と秘密裏に梯子を作り、それを使って例の隠し通路を上ろうと試みた。

 貴裕らは一定周期で栽培されたモノを回収していく。その間隙をつき、逃げ出そうと考えたようだ。

 何処から連れて来たのか知らないが、青年らは既にボロボロな状態が多く、痛めつけられたあげくに、ここへ落とされるみたいで、大抵は従順に雅裕に従っている。

 そんな中にも気骨のある者はいて、今回の首謀者も、貴裕がやってきた翌日、行動に移った。


 彼はまだやってきてから日も浅く、雅裕の人知を越えた異常性を知らない。だから、こんな無謀をやらかした。


 事は簡単、作っていた梯子を順にくくりつけて長さを伸ばす予定だったらしいが、想定していたよりも通路は深く、てんで届かないという結末に終わったようである。

 だが、その失敗に怖じ気づいた一人が、こっそり雅裕に密告したのだ。


 結果、梯子を片付ける前に現れた雅裕によって、血塗られた惨劇が幕をあげる。


 一本ずつ指を落とされ、次には手首、肘、二の腕と、細切れにされた青年の眼からは少しずつ光が遠退いていった。

 獲物が自身の死を自覚出来るほど、ゆっくりといたぶり、雅裕は御満悦。

 彼は蕩けた顔で植木鋏を操り、バチン、バチンと指を落とす。その都度上がる被害者の絶叫が敦の鼓膜にこびりついた。


「うぎゃあぁぁっ、があ"ぁーっ! うぁ...っ、....ぁ」


 しだいにか細くなり消えていく悲鳴。事の終わりを感じて、敦は安堵の溜め息を漏らす。


 バクバクと大きく脈打ち、破裂しそうな心臓が救われたのを実感した。


 何故か雅裕は敦を連れ回すため、否応なく目の当たりにする惨劇の数々。

 死んでくれて、ようやく安心出来る。被害者も、周囲の者も。その死が救いになる、そんな日常。

 下手に意識があり、絶叫されるより、モノ言わぬ遺体のほうが精神的にマシだった。


 助けて....っ


 ポロポロと泣きじゃくり、顔を両手で拭いながら、敦は心の底から願う。

 自分が何をされた訳でもない。だが、鼓膜を劈く悲鳴や絶叫に幾度となくさらされ、敦の精神は崩壊寸前だった。


 血の海で恍惚と微笑む雅裕。


 然も満足そうな姿で返り血を拭い、嬉しそうに敦に手を差し出してくる彼は、必ず同じ言葉を呟いた。


 如何にも幸せそうな微笑み。


「.....まゆちゃん」


 血塗れで、なんて顔してやがんだよ、....ああ、そうか。


 敦は顔中を涙でくしゃくしゃにして、なんとも言えない平穏を感じる。


 雅裕の異常性は万由の話で聞いていた。

 それが性的衝動に直結しているのも、敦は同性として気づいていた。

 そして、敦の部屋の隣に、別な誰かが閉じ込められていて、このような血生臭い事があった日の夜には、けたたましい女性の悲鳴が上がる事も。




「ごめん、ごめんなさ.....っ」


 相手に届かぬ事は百も承知で、敦はうわ言のように謝り続けた。


 今日も隣の部屋から悲鳴が聞こえる。


 それに耳を塞ぎながら、敦は心の底から安堵した。


 あの悲鳴が万由のものでない事に。


 雅裕の執着は万由にある。片言な言葉や態度からでも、それは間違いない。

 万由の関係者だと察したからこそ、雅裕は敦に危害を加えないのだ。

 それが無くば貴裕の言うよう、とっくに他の被害者らと同じになっていたのだろう。


 だが、その代わりの犠牲に、他の女性が慰みものとなっている。


 敦は立て続けにあがる甲高い悲鳴を黙殺して耳を塞ぎ、ただひたすら心の中で謝り続けた。

 だが彼の安堵も虚しく、当の万由は、仲間を連れて、近い未来にこの陥穽へと降りてくる。


 こうして雛鳥が揃い、籠の扉が開かれた。


 それは最悪の始まりか、地獄の終わりか。


 誰も知らない不穏な秘密をはらみ、万由の新たな夏物語が刻まれる。

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