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 白い水の中を泳いでいるようだ。

 それも、キンキンに冷やした氷水こおりみず

 ブルブルと体がふるえる。

 息苦しさも、すこし感じてきた。


(おちつけ……)


 たしか、屋上の出入り口から〈2時〉の方向にあったはずだ。

 ラス美さんのいる〈特別教室〉は。

 むずかしく考えなくていい。

 弱音をはかず、心を無にして、そっちに向かってまっすぐすすめばいいだけなんだ。

 が、


(おかしいな……このあたりじゃないのか?)


 見当たらない。

 というか、視界は白一色。

 ふってくる雪、つもっている雪、風で舞い上がる雪、空と地面……もはや全然区別がつかない。

 これが先生の言っていた〈ホワイトアウト〉か。

 こんな悪天候で、自分がどっちに向いているのかわからなくなるなんて、かなりやばい事態だ。


(大丈夫!)


 でも今この瞬間にかぎっては、やばくないし、少しもこわくない。

 ここにいるのは、ぼく一人じゃないからだ。

 風がひどくて、ときどき体が強く押されて流される。

 そのせいで、距離感や方向感覚が微妙にズレているのかもしれない。


(足が――)


 冷たすぎて、地面をふんでいる感覚がなくなっている。

 耳の穴に雪がつまってしまったのか、音も何も聞こえない。



 浮いている。



 純白で静かな世界の真ん中に。



 そして雪は〈ぼく〉すらも、白く塗りつぶしてしまおうとしている。


 計算が甘かったか?

 気力や根性があれば、なんとかなるって信じていた。なにより、ぼくには確固たる決意がある。

 でも、いくら胸の中が燃え盛っていたって、肝心の体のほうがついてきていない。


(体温が下がるって、まさか、ここまで……)


 ぐーっ、と手をにぎりしめることすら、ふだんどおりにできない。

 できない、じゃダメだろ。

 ぼくは、ってでも〈特別教室〉にいかなくちゃ、いけないんだよ。

 絶対!


(くそっ、どこだ)


 両手で雪をかきわけるように、あるいは平泳ぎのように体を動かして、正しいと思うほうへすすむ。

 屋上に立ち入って、どれくらいの時間がたったんだろう。 

 ふと、体が倒れたような気がした。

 頭は空を見上げている……と思うのに、確信がもてない。

 本当に、白しかないんだ。目印にできるものがない。

 せめて、


(自分が横になっているのか、立っているか。上と下だけでもわかれば――)


 と、つよく望んだら、


(あれは)


 願いが通じたように、視界にキラリと何かが光る。

 どんどん接近してくる。

 この動き方は鳥? まさか、こんな荒れた空を飛べるはずが……


(ドローンだ!)


 色はピンク。けっこう大きい。座布団ぐらいのサイズにみえる。


狩野かのう先生か。ぼくのピンチを見越して、これを飛ばしてくれたんだ)


 雪や風にもびくともしない〈全天候型〉のモデル。

 ありがたい。

 これ以上の、助けはない――――――


(えっ)


 どっちが空なのかはっきりして、体を起こした途端、よろめいた。 

 その直後、ジェットコースターで感じるような、ふわっと体が浮く感じがあった。

 しまった、とずいぶん遅れて気づく。

 ぼくは、落ちたんだ。

 学校の屋上から、足をふみはずして。

 まさに落ちている。

 上に見えるドローンがみるみる小さくなっていくのは、きっとそういう意味だろう。


(特殊な状況だからフェンスが壊れていても、おかしくない。もっと頑丈だったらな……)


 失敗した自分を棚にあげて、そんなことを考えた。

 だったら仕方ないね、と、あっちで姉ちゃんには言ってほしいから。


「天国にいくのは早い」


 無音の世界に、彼女の声があらわれた。

 姿は見えない。

 幻聴……?


「気をたしかに持て。わたしはここにいる」


 その言葉をきっかけにして、目の前に星がきらめいた。

 すべて白い中で、そこだけがまるで夜空。

 またたく七つの光。


「どうして来た。愚かな男だ。死にに来たのか?」

「いえ……」


 近い位置に、ラス美さんの顔がある。そのまわりで美しい絵を飾る額縁がくぶちのように長い黒髪がゆれている。刻一刻、光る箇所は変わっても、不思議と〈七つ〉以上にも以下にもならない。

 ポーカーフェイスの彼女の向こうがわに、小さくなってゆくドローン。

 ぼくたちは、いっしょに落ちているみたいだ。


「こんなときなんですけど、聞いてくれますか?」


 こく、とラス美さんは無言でうなずいた。


「ぼくは、あなたが」みつめて言う。「あまり好きじゃありませんでした」


 ラス美さんの反応はない。


「男子を目のカタキにしてるし、言葉づかいもふつうの女子っぽくなくて。えらそう、って言うんじゃないんですけど……」

「つづけろ」

「ほら、そういうところですよ」


 にっ、とぼくは微笑ほほえんでみせた。

 同じ落下速度だからか、ぼくとラス美さんの距離は変わらない。


「でも今はちがいます。何回も告白して、あげくにはデートまでしてもらって、ぼくは好きになってきました」

「なってきた……? 妙な言い方をする」

「たぶんもっと好きになります。この想いは、ふくらみつづけるんです」

「どこまで大きくなるんだ?」

「地球」


 最後の告白。



「ラス美さん。ぼくは地球ほど、あなたのことが好きです」



 白石、とつぶやいた気がした。小さすぎて、聞き取れなかった。そのまま彼女は言葉をつなぐ。


「ハツ美ではなく、わたし――なのか?」

「はい」

「初恋を、わたしに投影しているだけでは……」


 言っている途中で、ラス美さんの身を引き寄せた。

 ちょうど真下、胸元あたりに、彼女の小さな顔がある。

 そこから、垂直に見上げてくる。両手はぼくの服を、まるでぼくをじ登ろうとするようにぎゅっとつかんで。


「聞いてくれて、ありがとうございます」

「……」

「ずいぶん長くかかってますけど、ぼくたち、屋上から落ちてますよね」

「……」

「あ。これも申し訳ないんですけど、人類を代表して聞いてもらえませんか?」

「……」

「ごめんなさい。吹雪になって絶滅するのは、ぼくのせいです」

「……」

「もう言い残すことはありません。ラス美さん。ぼくの体をクッションにして下さい。そうすれば、少しはダメージをへらせると思いますので」

「…… ……か」

「え」

「そんなことできるかっ‼」


 ぼくは、とっさに反応できなかった。

 ラス美さんが、顔をぐちゃぐちゃにして、泣いている。


「わたしは貴様のことが好きだ‼ 大好きだ‼」


 体がゾクっとした。

 寒くてじゃなくて。

 受け入れてくれた? こんなぼくを?


「ラス美さん」

「うごくな」

「――――ッ⁉」


 おたがいの体が同じように冷え切って、温度差がなかったせいだろうか。

 期待していたような感触じゃなかった。

 乾いた部分を当て合ったから……か?


(もうちょっと、したかったな)


 って、それは贅沢ぜいたくだ。

 人類滅亡いや人生終了の寸前に、最初で最後のキスができただけ、しあわせだと思わないと。

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