残り2日
大人の女性に抱きしめられた。
体がはなれても、まだやわらかい感触が残っている。おもに胸のあたりに。
大きくなっちゃったね、とその女の人は視線を下のほうにさげる。
「昔は、こーんなに」
と、ぼくの腰のあたりで頭をなでるような手つき。
「ちっちゃかったのに」
にこっ、と目がほそくなる笑顔。水で濡れたような
興奮冷めやらないというキラキラした目で、じーっとのぞきこんでくる。
「昔」って言ってたけど、ぼくもなんとなく見おぼえが――
あっ、と声をあげそうになった。
完全に思い出した。
このきれいな人、ハツ美のお母さんだ。
「どうしたの? こんなとこで?」
「いや、その」
「まー立ち話もなんだから。ねっ?」
ほらほら、とうしろに回ってぼくの背中を押す。
そして、つれていかれたのは……
(ここにあったのか)
はじめて来たとき、「エントツみたい」と口にしたことを思い出した。
三階建ての立派な一軒家。二階から上の外壁がまるく
表札は、
「
「そうだよ。それが、どうかした?」
おかしなシラケンくんだね、とお姉さん……いや、ハツ美のお母さんは玄関のドアをあけた。
おちつけ。
これは意外じゃない、むしろ予想できたことだ。
ようやく『ながもり
大いなる前進だ。
そう思っていたら、話はとんとん拍子にすすんで、真実は向こうからダッシュでやってきた。
「あの子が小学生のときに一時期この家に住んでて――」
「結婚してたから、当時は『
「いまと名前がちがう? 離婚しちゃったから。離婚のきっかけは、ヤツが――」
「で、その交通事故のあとね、ヤツがビビっちゃって。たしかに原因は、助手席に娘を乗せてたからなんだけど――」
「そのあと海外にわたって、娘の体質をお医者さんに
あっ、ちょっ、とぼくはお母さんの話をさえぎった。
はやすぎて理解が追いつかない。
広いリビング。
ロングソファにとなり合って座っていて、手前のテーブルにはマドレーヌと紅茶。
みじかくて小さい金色のフォークを手にとって、自分が食べるのかと思ったら、
「あーん」
なぜか、あーんされた。
お母さんはほほ笑んで、家族に向けるような親しいまなざしでぼくが
「どう?」
「……おいしいですね」
「でしょ? もいっこ食べる?」
「待ってください」
もっとも大事な確認を、しておかなければ。
「娘さんのお名前は……?」
「えー。知ってるでしょ」
と、笑顔ではぐらかされる。
何度も同じ質問をするのはスマートではない。
ひとつ、カマをかけてみるとするか。
「昨日は、ごちそうさまでした」
デートで行ったレストラン。
ラス美さんの母親の知り合いが経営しているからということで、お金は払っていない。
ということは、その〈母親〉には事前に話が
「いえいえ」
きた!
やっぱり、二人は同一人物だったのか。
……ん?
お母さんが急に姿勢を正した。
ぼくに向かってゆっくりと頭をさげる。
「白石くん。ほんとに、昨日はありがとう」
「え?」
頭をもどし、耳元の髪をかきあげた。
「娘のあんな様子をみたのは、はじめてだったなぁ……。男子とデートだ、ってそわそわして、鏡の前でずっと表情をチェックしたり、何度も何度も服を着替えたり、念入りに髪をととのえたり……」
そんな舞台裏があったのか。
昨日のラス美さんは、ふだんと変わらないようだったけど。
「雰囲気がとーっても明るくなってね。光がさしたような感じっていうのかな。
「何を、ですか?」
「一生、自分は男の子とつきあえないんじゃないか、って」
電話が鳴った。
スマホじゃない。ドアのそばにある固定電話だ。クラシックのメロディの電子音が鳴っている。
「はい。もしもし円堂です」
すこしオクターブが上がったお母さんの声。
チョコレート色のニットと下はデニムの後ろ姿がとても女性的な
ガラス戸の外に視線をうつす。また雪がふりはじめたようだ。
「え? でも先生は……女性……でしたよね?」
聞かないようにしても、聞いてしまう。
なんだか気になる内容だ。
「わかりました。私も、そちらにうかがいます」
ぴっ、と電話を切った。
「羅須美がね……あっ、今日あの子、家じゃなくて病院にいるんだけど」
えっ。
病院?
デートのときは、ちっとも体調がわるいようには見えなかったのに。
「体がよくないんですか?」
「ううん、定期的な健康診断。でもちょっとトラブルみたいだから、すぐ出かけないと」
トラブルってなんですか? と、聞いていい空気ではない。お母さんは外出の準備でバタバタとリビングを出たり入ったり、あきらかに急いでいる。
邪魔になるから帰ろう、とソファから立ち上がると、だだだっとぼくのほうに駆け寄ってきて、
「シラケンくん。最後に一つだけ!」
両手で、両手をにぎられた。
「あの子は事故の衝撃で、幼少時の記憶をすべてなくしたの」
「ラス美さんが?」
「キミ、娘のことを『ハツ美』って呼んでたでしょ? あの子おとなしい性格だから、それ、ずっと訂正できなかったのよ」
「もしかして……発音が……」
「こどもの口だと『ラ行』はちょっと言いにくいの。舌足らずだと、なおさらね。『ス』も舌がひっかかって、キミには『ツ』って聞こえていたのかな? とにかく、むかしキミが仲良しだった女の子と、今のあの子はいっしょ。大人が口を出すことじゃないんだけど、これからも娘をよろしくね」
つながった。
これでもう、まぎれもなく同じだと断言できる。
円堂羅須美は、ぼくの初恋の人だ。
◆
とうとう、一学期最後の日の朝がきた。
事実だけでいえば、ぼくは土曜日にふられている。もはやラス美さんにコクっても、ノーチャンスだろう。
しかし、カツが入った。
昨晩、
落ちこんじゃいませんよね?
と、送信直後ぐらいのはやさで返された。件名がそれ。以下、こう続いた。
いっちょまえに、落ちこんじゃいませんよね?
ふられて落ちこんでいいのは、恋愛に完全燃焼したヒトだけです。
好かれるための努力をこれでもかってくらいやったヒトだけが、落ちこんでいいんです。
先輩は、まだまだ努力不足なのです!
と、失恋をなぐさめるような文句は、一つもない。
ぼくは、いい仲間をもった。
クサりかけてたところに、いいカツをくれた。おかげで背筋がのびた。
重くなるはずの足どりも、すこし軽くなったよ。
足は、べつの意味で重い。
(うわっ、ひどい雪だな……)
ひざのあたりまで埋まってしまう。
夜中にこれだけの雪がふったのに、朝になったらピタッとやんで、警報も一時的に解除された。
まるで、ぼくを登校させるために、そうなったみたいに。
「おう、ソンタ」
「よく登校したな」
おたがいさまだぜ、と親友の
二人で階段をあがっていると、
前のほうから、
バラの香りがした。
「……」
ラス美さんだ。
風向きがわるかったのか、大友が一瞬で倒れた。ひざから落ちて、階段を枕にして寝ている。
「……」
ぼくを見ている。
その目は、なんとなくやさしい。これまでのキツさがない。冷たい感じがしない。
まさか、昔の記憶を――
「待ってください!」
何も言わず立ち去ろうとした彼女に、あわてて声をかける。
階段を一気にあがって、面と向かい合った。
「ラス美さん! ぼくは、まだあなたのことが好きです!」
「貴様は、誰だ……?」
「え」
「気安く声をかけるな。わたしは貴様など……、まったく知らない」
え。
そんなはずは……。
ふられたとはいえ、デートまでしたのに『知らない』だって?
「告白するのは、もうやめろ」
長い髪が、彼女の体の前でゆれている。
かならず〈七つ〉光る箇所がある、不思議な髪。
が、おかしい。
光るところが、一つ多い。
キラッと光りながら、それは落下してゆく。
「貴様とは、未来永劫、つきあうことはない」
ラス美さんはポーカーフェイスのまま、涙を流していた。
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