残り4日 ー 五時間目~放課後 ー

 去年の文化祭、この先生がセーラー服を着て廊下を歩いていたのをおぼえている。

 童顔でしかも年が若いので当然のごとく似合い、似合いすぎてしまって、当時の一年の女子から「何組の子?」と話しかけられたという逸話いつわが残っている。


「本当の名前……ですか」


 湯気のたつカップを手に持ったまま、じーっとぼくを見る。

 どことなくシリアスな顔。

 ぴんと緊張する空気。

 やっとそこに気がつきましたね、という雰囲気か?――と思ったが、全然そうじゃなかった。


「逆に私が知りたいです。彼女、本名じゃないんですか?」

「えっ」


 あてがはずれた。

 ラス美マニアでも知らない……のか? っていうことは、やっぱりラス美イコールハツ美では……


「どうしてちがう名前だとお思いに?」

「え、えーと」


 苦しまぎれに苦いコーヒーを飲んで、ごまかす。

 ふう、と息をゆっくりはいて、


「ちょっと本名……っぽくないな、と思いまして」

「ああ。羅須美らすみなんて、見かけない名前ですよね」


 よく考えたら、とほうもない話だ。

 ひとつ上の学年の彼女が、むかし近所に住んでいた女の子と同一人物だと思うなんて。

 だが、幼なじみのクマミのカンはよく当たる。

 もしそれが事実だった場合、状況はがらっと変わるだろう。

 もう少し、すすんでみる価値はある。


「調べられませんか?」

「なぬ?」


 そろえた指の先でメガネの横の部分をさわる。


「生徒の名簿みたいなヤツに、パソコンでアクセスして――」

「ちょっ、白石君、タンマ!」

「タンマ?」

「通じてない……。ああ、いわゆる一つのジェネギなのね」先生は天井を見上げた。色の白い首に、銀のネックレスをつけている。顔の角度をもどして「タイムみたいな意味。いい? これも次のテストにだすよ?」

「はい」


 ぷっすー、と部屋のエアコンが気の抜けるような音をたてる。これはアレだ、室外機の霜取りしているときの音らしい。外がかなり寒いときだけ起きる現象だ。窓の外は、もちろん雪。

 とん、とん、と先生はずっと自分のおでこをタップしている。

 考え事をするときのクセなのかな。


「……最初からタダゴトではないという予感はしていたのですよ。だって、白石君がわざわざ授業を脱け出してまで、ここにきてるわけですから」

「ぼくにはもう時間がないんです」

「まあ、なんてグッとくるセリフなのっ!」先生がほっぺに両手をあてる。「う、うーん……協力してあげたいけど、今は個人情報の取り扱いはデリケートなんですよ。最低限、彼女のクラス担任じゃないと」

「お願いします」


 ぼくは頭をさげた。

 地球をすくえるのなら、こんな頭でよければいくらだってさげる。

 ぽんぽん、と肩をたたかれた。

 どういう意味だろう……と思って頭を上げると、


「やってみましょう」


 カラッとした明るい声で、そう言ってくれた。

 先生はメガネをはずして白い布でレンズをふいている。

 素顔だと、さらに年が若返ったように見えるんだな……とつい見入っていたら、


「タ、タンマ!」


 はずかしそうに背中を向けてしまった。

 おとなしくタンマしていたら、メガネをかけなおし、ゆっくり椅子を回してふりかえる。

 握りこぶしを、胸にあてた。


「やりますとも。生徒のお願いは、エッチなやつじゃないかぎり断らないのが、私のポリシーですから!」



 ――――その五分後。



 どうしてこんなことになった?


「あはは……」


 うす暗い中、先生がてれ笑いしている。

 お互いの顔の間、数センチという近さで。

 ピンチはピンチ。

 だがラッキーという見方もできる。


(体があたってるッ!)


 せまいロッカーの中。

 掃除用具といっしょに、そこにぼくと先生が入っている。


「しかし白石君、よくわかりましたね~。ここに〈彼〉がくるのが――もがっ」


 反射的に、彼女の手を口でふさいでしまった。

 まだピンチは脱していない。

 見つかったら終わりだ。


(誰もいない。もぬけのカラです)


 この心の声は、風紀委員長の早乙女さおとめさんだ。今日もリーゼントはばっちりだった。ロッカーに潜伏する直前、ちょっとだけ彼の姿が目に入っている。

 ロッカーごしだと、文字しか見えない。


(たしかにこの部屋から、生徒会長の個人情報にアクセスしようとした形跡があるのですが……)


 カツ、カツ、と部屋を歩き回る革靴の音。


(いや……これほど短時間にパソコンを落として身をかくすなど不可能事ふかのうじ。そもそも私がくることを察知できるはずがない。ふむ、なにかの誤作動だったのでしょうか)


 ガラリ、とドアをあけて出ていった。

 ふーっと、はいた彼女の息はコーヒーのにおい。

 ごめんなさい、と口元をおさえながらロッカーから脱出。


「あぶなかった……あの人だったら相手が先生でも、ふつうに停職とか言いますよ」

「うんうん。助かりました、ありがと~」

「あ、一応パソコンはまだつけずに」


 電気でも感じたように、あわてて手をひっこめる狩野かのう先生。

 椅子に座って、やっと一息つける。

 ふう。

心見こころみ〉の力のおかげで助かったよ。

 先生が学校のデータベースを調べはじめて数秒後、 


曲者くせもの!)


 というデカい文字が急に視界にあらわれたから、危険を感じて先生とロッカーにかくれたんだ。


「やれやれ、ですね」


 ほんとに、とぼくは先生に相槌をうつ。

 同じタイミングで、まだ中身が残っているマグカップを口元にもっていった。

 椅子がキイと鳴った。

 入り口のドアがひらいた。


「!」


 ぎょっ、という表情で二人で顔を見合わせた。

 まさか早乙女さんがもどってきたのか――


「狩野先生、回覧です」


 と、プリント一枚を手渡す。


「ど、どうも~」


 あからさまにキョドっていることに首をかしげつつも、プリントをもってきた先生は何もきかずに出ていった。


「やばいにゃあ。邪推じゃすいされたら困りますねー。密室で男子生徒と二人っきりだったわけだし」


 はは……と愛想笑いが、凍りついた。

 机の上、回覧されているプリントの内容。

 終業式について。ちなみに今日は7月17日。


(そんな)


 24日の予定だった式を前倒しして、週明けの月曜日におこないます……だって?


「タンマ……」

「え? 白石君、なにか言った?」


 チョコたべる? と先生が一口サイズのチョコをくれる。

 味が、まったくしなかった。


 ◆


 学校じゃなきゃ、ぼくはラス美さんに会えない。

 なのに、その会えるチャンスが削られた。

 土日を抜くと、もう今日と月曜日しか告白はできない。

 ……これ、もう終わってないか?


(ぼくには無理なのか)


 地球をすくう“みっしょん”なんて、自分には荷が重かったのか。

 せいいっぱい、やったつもりだけど。

 放課後。

 親友の大友おおともから逃げるように教室を出て、ぼーっと一人で廊下を歩いている。


(クマミといっしょに氷漬けか……)


 わるくない。でも今のぼくみたいな男、クマミのほうでお断りだろうな。

 魚心あれば水心。

 できるかぎり、ぼくは〈好き〉をアピールしたつもりだが、その一パーセントでもラス美さんに伝わっているだろうか。

 伝わる、わけがない。

〈好き〉じゃないからだ。

 ぼくの恋心は、いまだにハツ美に向いている。ラス美さんではなく。


(つもってるな)


 外の地面。三階の廊下の窓から、それが見える。


(ん?)


 ピアノがきこえる。ふたをして閉じこめたみたいな、かすかなボリュームで。 

 知ってる曲のような……。知らないような。クラシックっていうことだけわかる。

 音楽室。

 奥ほど高くなる階段状の部屋で、黒板の前にグランドピアノ。

 吹奏楽部の活動前なのかあとなのか、ピアノの周囲には楽器がたくさんある。

 ぼくは、ごく自然に声をかけた。


「これなんの曲ですか」

「知らないのか?」


 ピアノの光沢のある黒よりも黒い、つややかな黒い髪。それが垂れていて、横から顔は見えなかった。

 ラス美さんだ。

 背筋をのばした姿勢で、演奏をつづけている。


(上手ですね、って声をかけるのも、なんかダサいな)


 ぼくは立ったままでピアノを聴いた。

 き終わると、


「体は、おぼえているか」


 と、ひどく気になることを言う。

 鍵盤を見つめたまま、まるでひとりごとのように。


「体ですか」

「小さいころ、ピアノを習っていたらしくてな」

「らしくて……?」

「記憶がないんだ」


 立ち上がって、彼女は窓際へ移動した。

 くもったガラスごしに、雪を見ている。

 しれっと、ぼくは真横に立った。


「よくふりますね」

「そうだな」

「毎日、寒くなってますよね」

「そうだな」

「ところで明日、ぼくとデートしてくれませんか?」


「そうだな」――とは、いってもらえない。

 当たり前だ。

 ラスボスの〈YES〉は、こんな簡単には引き出せない。

 無言で、ケイベツかもしれない冷たい視線を向けてくる。

 まあ、こんなもんだよな、現実は。


「ソンタ!」

「先輩!」


 頭に浮かぶ大友と曳舟ひきふねさん。と、その激励げきれいする声。

 うん……まだクサるにははやい。

 強引に、彼女の手をとる。


「何をするっ!」

「ぼくと」


 左手でラス美さんの手をにぎり、右手は――右手は――


(壁がない)


 つまり壁ドンができない。せっかく二人が出してくれたアイデアなのに。

 やむをえない。

 どん、とつく。

 彼女の腰の横を。

 そこにはちょうど大太鼓があって、最高の「ドン」が鳴った。


「デートしてください‼」


 日付は明日、場所は駅名をげてその駅前、時間は10時。

 一方的な約束を聞き届けて、なにも言わずに出ていったラス美さん。

 ぼくは信じたい。

 あの首の動きが、うん、といううなずきだったということを。

 さもなければ、いよいよ人類終了だ。

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