第10話 犬も歩けば棒に当たる


「なんでもないから」


 あいつの対応はすばやかった。

 手でさっと顔をぬぐい、息をととのえて、いつもと変わらない表情を向ける。

 おれは、ソアのすこし充血した目を見ながら言った。


「誰に泣かされたんだ?」

「デリカシーないなぁ」ちょっと、笑顔が出た。「女の子は、ときどきこういうことがあるのよ」

「花粉症……じゃないよな?」

「うん。ちがうよ。悲しいことがあったから泣いてたの」

 なにがあった、と深追いするのが、すなわちデリカシーがないってことだろうな。

 おれはにぎったままのポケットティッシュをポケットにもどした。

「泣くってストレス解消になるって、知ってた?」

 ソアが無理に――幼なじみのおれにはそう見えた――ほほえみながら、そんなことを言う。

「わたし、もうちょっとだけストレス解消していくから」

 ベンチに座ったままで体勢をかえて、ソアは背中を向けてしまった。

 しかたない。これは「さっさといってくれ」っていう無言のメッセージだ。

 帰るしかないな……。

 駅までは、だいたい閑静な住宅街をとおることにしている。

 だからあまり物音がない。道を歩いている人の姿もない。

 そこに、


「おーい、あほ」


 うしろから。

 すごくクリアに声が聞き取れた。

 ふりかえると、二つの目を黒いレンズでかくした深森ふかもりさんが夕焼けの空をバックに手をふっている。ん? もう片方の手にぶらさげているのは……


「よろこびなさいよ。これ、差し入れ」


 黄色い半透明の袋。ドラッグストアのもののようだ。


「はい」


 とわたされたのは、湿布。


「授業中、ずっと背中とか腰のあたりをさすってたでしょ? いたいんじゃないの?」

「いたい」と、おれは素直に答えた。「廊下で一本背負いされちゃったから」

 う。

 ブラックのカーテンのせいで見通せないが、おれにはわかる。

 確実に軽蔑のまなざしを浮かべているぞ。

「またそうやって、くだらないことを言う」す、とサングラス……じゃなくて、眼の病気予防とかの黒いメガネのつる・・を敬礼のような手つきでさわった。「それ、白川君のダメなとこよ?」

「はは」とおれは愛想笑い。「もらっていいの?」

「いいよべつに。ほかに買うついでがあったから、買っただけだし」

 そう言うが、袋には湿布以外、入ってなかったみたいだったけど。

 とにかく、ありがたいな。

 あれ――?


(手がふるえてる)


 湿布を持つ、おれの手が。

 あわてて、スクールバッグにそれをほうりこんで、笑ってごまかした。

「帰るんでしょ」

 行こう、とばかりに深森さんがあごをくいっと動かした。ハリウッドの女優みたいでかっこいい。

「それで……また、あの話を聞かせてよ」

「あの話?」なんのことだ、と、左を歩く深森さんを見た。

「ほら――告白を成功させないと卒業できない、っていう妄想の話」

 おれはすぐに否定した。

 だが深森さんは、はいはい、という表情を浮かべるだけ。


「そんなのカンタンじゃない」


 彼女は、意外なことを言った。


「すでにいるでしょ? オッケーしてくれそうな相手が」


 まさか。

 まさか、だぞ。

 これって、遠回しの告白なんじゃないか? いつのまにか深森さんが、おれを……。

 その相手っていうのは――


「片岡さん」


 ずるり、と地面をふんだ右足が前に数センチすべった。あぶない。ころんでたまるかよと左足でふんばる。

傍目八目おかめはちもく。こういうのは、当事者よりも外野のほうがわかるもんなんだから。二人、お似合いだよ?」

 言うべきかためらったが、


「フられたんだ……」


 と、思わず口をついていた。

 時間的には、だいたい二週間ぐらい前、おれは片岡かたおか想愛そあに告白してみごとに玉砕している。

「え、そうなの」と、深森さんはケロっとしている。「へー」

「へー、って何」

「意外とがんばってるんだなー、って意味」サラサラのショートカットに手櫛てぐしをサッと流す深森さん。「でもさ、そこまでしてカノジョってほしいものなの?」

 そこまでして、っていうのはおれの遠峰とおみねさんに対するアプローチの数々のことだろう。

 女子といっしょに歩く緊張のせいではないと思いたいが、いつのまにか歩行速度が上がっていた。

「っていうより、カノジョができないと卒業できないんだよ」

「また言ってる」

 背中に感触。


 あ


 ほ


 と、指で書かれた。

 反論しようとおれがそっちを向くと、


(――ん?)


 前方に視点をさだめたまま、かたまっていた。

 わん、と小さな鳴き声。長いリードを地面にひきずった小犬がトコトコあるいてきた。

 めちゃめちゃかわいいじゃないか。

 犬種にくわしくないから種類はわからないけど、黒い毛がモフモフした犬。

 わん、とまた鳴いた。

 どうしよう……飼い主の許可もえずに勝手にさわっちゃダメだよな、でもさわりたいな、ねぇ深森さんもそう思わない? と見ると、


(~~~~~っ!)


 そんな感じで、声を押し殺して恐怖にたえているような様子。

 犬がうごく。

 するとその倍以上のスピードで、おれの背後に回ってかくれた。


「冗談だろ……」


 という感想。

 こんなの今どき、マンガでもないぞ。

 大型犬というのならいざ知らず、ただの犬、ただかわいいだけの小型犬にすらおびえる女子なんか――


「い、犬はダメなのよ! 犬はっ!」


 遊んでくれると思ったのか、おれよりも、彼女めがけて駆け寄る犬。

 その数分後、飼い主がここにやってくるまで、深森さんと小犬がおれを中心にしてぐるぐると走り回りつづけた。


 ◆


 つまらない。

 と思いつつ二時間ガマンした。

 三十年くらい前の映画。DVDプレイヤーから出して、ディスクをレンタル屋さんの袋に入れる。あと二つある。

 しっとりとした恋愛模様をえがいた映画で、こういうの好きな人は好きなんだろうけど、おれの感性ではその面白さを理解できなかった。無念だ。

 まあ、これは楽しむのが目的じゃない。

 勉強だ。

 遠峰さんと話を合わせるための勉強。テストのそれさながらに、登場人物の名前とかストーリーとかをノートにメモっている。

 ベッドに座ると、


 ズキン


 と、腰がいたんだ。

 そこには、差し入れられた湿布が貼られている。

 まいったな。

 明日には、よくなってるといいけど……。

 スマホを手にとった。

 小学生のときから使ってるあいつのメアドにメールを送る。


「元気か?」


 すぐ返ってきた。


「元気」


 これだけ。

 まったく味気ないな。あいつらしいけど。


「ほんとに元気か?」


 爆速のリプ。


「しつこい」


 それだけ。しかしその数秒後、


「怒ってるわけじゃないよ。ヒロシならわかると思うけどね」


 という追記が届いた。

 違和感。

 メールだからかもしれないが、いやメールでも、あいつはおれのことを「コクちゃん」とか「コク」とかで呼ぶ。

 ちいさいときから、ずっとそうだ。


(そういや、おれって〈ひろし〉だったんだな)


 家族以外で、こうやって下の名前で呼ばれたのは久しぶりだ。


「わかってますよ、片岡さん」


 と、わざと〈さん付け〉でメールを送った。

 返事はこない。

 疲れたので、もう寝ることにする。

 まぶたを閉じたとき、あいつの名前を入力する途中の変換候補で出てきた〈片思い〉の文字が、なぜか一瞬フラッシュのようにあらわれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る