第142話


 頬杖をついてジッとミルが置いて行った少女の写真を見つめていると、応接室の扉がノックされた。

「失礼いたします」

 ジャムがトレイに乗せたティーカップを持って入室すると、淹れたての珈琲をイェナの目の前に出す。主人の表情はいつも通り読み取れはしないが、どこか頭を悩ませているのを横目で見た。


 イェナは湯気の出ているカップを口に運ぶと、ジャムに問いかける。

「……ねぇ、これこんな味だった?」

「……ええ、豆は変えておりませんが」

 無表情な二人の間に落ちた沈黙。それを破ったのはイェナだ。


「なんか……」

 歯切れの悪い主人にジャムは彼の言いたいことを的確に言い当てた。

「舌に馴染みませんか?」

「……」

 図星であるからこその沈黙。ジャムは眼鏡の奥で目を細める。


「イェナ様は最近紅茶を好んで飲んでおりましたから」

 その言葉にイェナは怪訝そうな顔をした。彼が好むのは珈琲であって、紅茶はあまり飲まないはずだった。だが今口の中に流れ込んできた苦味には何故か違和感を抱いた。アンやロールならタチの悪い冗談だろうと鼻で笑えるが、相手は真面目で面白味がないとまで言われるジャムだ。嘘や冗談は言わないだろう。

「紅茶?じゃあそれ淹れてみてよ」

 素直にジャムの言葉を受け入れて命じるが、ジャムは珍しく仮面のような表情を崩し、困ったように眉を下げた。


「……申し訳ありませんが、イェナ様が求めておられる味を出せるのはたった一人です。今はこのお屋敷におりませんので、難しいですね」

「……それは、ナツとかいう女と関係してる?」

「……いいえ、とは、言えません」

 イェナは少なからず驚いていた。帰ってきた瞬間、“ナツ”というたった一人の人間がいないだけでアンは奇怪な顔をした。ロールも「ナツは本当に……いないんですね」とどこか哀れむような視線を自分に向けた。

 そして──ジャムでさえも、あの女のために今まで保ってきた冷静な顔を崩してしまうのか。そうさせる何かが、あの女にあるのか。イェナの頭の中は混乱していた。


 ジャムをソファーから見上げてさらに質問を続ける。

「俺の部屋にある見覚えのないものも、全部?」


「それは……私には分かりかねます」

 一口だけ飲んだ珈琲にはもう手をつけなかった。


 ジャムの答えを聞いて小さなため息をつくとイェナは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。そんな彼の背中に向かってジャムは小さく呼びかけた。


「あなた様は……何よりも大切なものを忘れてしまっているようです。私ども使用人に口を出す権利はありませんが──このままではきっと後悔されますよ、イェナ様」


 イェナは答えなかった。ジャムの出過ぎだと言われてもおかしくない警告にも黙ったまま、行き先を告げずに扉を開けて出て行った。

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