第141話


「……君か」

 イェナが応接室の扉を開けると、ソファーに腰掛け出されたティーカップに上品に口をつける姿があった。


「ふふ、聞いたわよイェナ。記憶が失くなったんですって?」

 そう言って綺麗に笑ったのは──ミルだった。


「……誰に聞いた?」

「フランよ」

 話を聞いてすぐに駆けつけた、とミルは言った。その笑顔の裏に何が隠されているのか、記憶のないイェナは想像することすらしない。


「ふうん、それで?何の用?」

 向かいのソファーに座って脚を組むと、淡々と切り出した。ミルはそんなイェナの様子を見て本当に記憶を失ったのだと確信するとほくそ笑む。



「──暗殺を依頼したいの」

 ミルの言葉にイェナは全く動じず「誰?」とだけ尋ねた。

「これは個人的な依頼よ。このナツという少女を殺して?」

 スッとテーブルに出したのはさっきまで自分も眺めていた少女の写真だった。先程と違っているのは、隠し撮りなのだろう、こちらに視線を向けていないことと、あの印象的な笑顔ではないことだった。


 その写真を手に取ると、イェナは眉を顰めた。その仕草にミルは一瞬たじろいだが、彼から殺気が放たれていないことに安堵して脚を組み替える。

「……この子はアロやノエンのお気に入りなの。だからくれぐれも内密にね?」

 機内でのことを思い返せば、確かに、とイェナは頷く。アロはイェナが殺気を滲ませた瞬間から厳戒態勢をとり、少女を守るかのような姿勢を見せた。そこまで考えると、今度は頭よりも胸元がモヤついて彼を苛立たせる。



「……分かった。オレもこいつ目障りだったから丁度いいよ」

 彼女が消えればこの苛立ちもなくなるだろう。そう結論づけたイェナは二つ返事で依頼を受けてしまったのだった。



 ミルは計画通りに事が進み、嬉々として礼を告げる。そして早々に立ち上がるとイェナが座るソファーの肘掛に凭れかかり、身体を密着させた。

「ねえ、イェナ。もう一つお願いがあるの」

 ピタリと寄り添う肌に少しばかり不快感を抱いたが、そのまま言葉の続きを促す。


「この仕事が終わったら──私をあなたの婚約者にしてくれない?」

「は?」

 突然の申し出に明らかに不機嫌な声をあげたイェナ。しかし作戦がうまく行っている事で弾みがついたミルは動じることはない。

「マヴロス家の長男なんだから、後継は必要でしょ?女に興味がないなら身近な私で手を打たない?」


 イェナは母親の口から同じようなセリフを聞いたことを思い出す。確かにミルの言っていることは尤もで、口うるさく見合い相手を薦められるよりは見知った相手の方が楽だと思った。それも仕事相手として少なからず利用できるミルならば、特に不満もない──はずだ。


(別に、誰だって一緒だ)

 そう、思うのに。ひどく嫌悪感が襲う。誰だっていいはずなのに……誰が相手でも嫌だった。矛盾した思いにまた頭が痛む。


(そういえば、あの女も意味不明な事言ってたな)

 あの涙ぐんだ顔を思い出せば、また頭痛がひどくなる。


『──私はあなたのメイドで婚約者で、専属医で抱き枕で……恋人ですから!!』

 ……やはり危険だ、とイェナは思った。あの女は暗殺者である自分にとって不利益にしかならない存在だと。



「……考えとくよ」

 爪を弄りながら、イェナはミルからさりげなく身体を離した。

「じゃあ詳しくはメールしといて」

 素っ気なく言い放つと、「……変わらないわね」とミルは寂しそうに笑って応接間を出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る