第101話

 

 ナツを突き落とした先を見つめるミルは口元を歪めて笑んでいる。木々に覆われていて地面は見えないが、ナツも今頃は無残な姿となっているだろう。そう考えて、ミルは踵を返した。次はどうやってイェナに近づこうかと思案し始めてすぐ──パァンと水に何かが勢いよく飛び込んだような音が響いた。

 ミルがハッとして振り返れば、近くの湖から水しぶきが高々と上がっているのが見える。


 まさか──だがその湖は崖の真下からは外れている。あの娘に落下の軌道を変えることなどできやしないだろう。

 そう思うが、ミルの胸に嫌な予感が過ぎる。



「ふうん──そういうことね」

 そんな中で背後から声が聞こえ、ミルの背筋は凍った。

 抑揚も感情もこもっていない声。だけど確かにゾッとするような、あの娘に向けるものとは全く違う──声をかけられただけなのに「殺される」と予感してしまう声色は確かにミルが好意を寄せる人物のものだ。


 振り返ると今度は身体中が震える。そこにはいるはずのないイェナの姿があった。

「イェナ……!?試合は……」

「アロが1人で出てる」

 一部始終を見ていたのだろう、彼の纏う空気がいつもと違う。ミルは明らかにそれを感じて脳内に危険信号が灯った。自身に対して今まで特別な空気を察したことはない。誰に対しても同じように“興味のない”目を向ける。だが今はそうではない……明らかな“敵意”が感じ取れて三度ゾッとした。



 だがあれだけナツを大事にしているイェナが、全てを見ていたというのに彼女を助けなかったのか?突き落とされた彼女を見ているだけだったことに疑問を抱く。

「……はっ、あの小娘を見殺しにしたの?」

 ミルはこの後に及んでまだ勝機はあると踏む。震える声を堪えて強気に出れば、イェナはゆっくりと、一度だけ瞬いた。

「馬鹿なの?そんなわけないでしょ」

 イェナが一歩ずつ近づいて来る。ただそれだけなのに、ミルは指の爪を一枚ずつ剥がされているかのような──拷問を受けている錯覚に陥る。

「ナツに危害を加える奴を……お前を確実に逃さないため」

 陰った瞳は彼の、ないはずの表情を恐ろしく見せた。


「でもあの子は──っ」

「言っただろ、試合はアロ1人で出てるって」

 イェナがまた一歩、近付いて来る。以前はそれを酷く喜んでいたというのに。本来懸命なはずのミルは彼の言葉をうまく理解できずにいた。それほどに判断力を鈍らせているのだ。

「え……どういう……」

「下にはあとの3人を待機させてる。ナツに傷一つつけたら許さないって言ってあるよ」

 そこでミルは全てを理解する。


 イェナはアロに試合の全てを任せてここへ来た。残りのメンバーであるデケン、マル、フレヴァーにはナツに危害が加えられるかもしれないと、あらゆる想定をしてそれぞれの場所で待機させ、彼女を守らせた。

 イェナ本人が助けなかったのは、少なからずチームメイトを信頼していたからで、ナツを狙う者を確実に自身の手で仕留めるため。


 そう、ナツは最初から全てをイェナに話していた。あの手紙を受け取った後、すぐに彼に相談したのだ。ナツ一人が動くことでまた危険が及べば、さらに大きな迷惑をかけてしまうと危惧したからだった。

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