第99話
医務室を出て、なんの問題もないというのに過保護な婚約者は私をおぶってホテルの部屋へと戻る。
彼の背中にぴたっと頬をつけると、声がダイレクトに耳に届く。
「──オレとあの小娘どっちが好きなの」
「え?」
いつもの通り、なんの脈絡もない会話。突然の問いかけに気の抜けた声しか出なかった。
「……イェナ様が世界で一番ですけど?」
サリーにかけた言葉にすら、嫉妬するのか。顔が見えないのをいいことに、私の頬は緩む。イェナは「ふうん」と満更でない返事をした。
「──じゃあ、セリスは」
気にしてますよね、もちろん。
私も学ばないな、と自分自身に呆れる。だけどセリスへのファン心は身に染みついていて、ほとんど無意識のうちに発信しているのだから多目に見て欲しい。
「愛してる、って言った」
「う……」
「オレの時は言わなかったのに」
拗ねたような口調に心臓がギュンッと掴まれる。可愛すぎてもうあなたの顔が見たい。
「イェナ様への好きは、誰よりも特別です。私はイェナ様に恋してますから」
ゆるゆるの顔で私はそう弁解した。
ちょうど部屋に着いて、ベッドの上に降ろされる。腰を下ろした私の目の前で、跪くイェナの見上げた瞳がとても綺麗だった。
「……ねぇ、ナツ」
「はい?」
真剣な表情。……普段の真顔と何が違うのかはもう私にしか分からないからうまく説明はできないけれど。
彼の纏う雰囲気がとても熱を帯びていて、こちらまで背筋が伸びる。イェナが口を開くまで──何だか時間がゆっくり流れた気がした。
「──結婚しようか」
「……え?」
ぽかんと口が半開きになる。彼の発した言葉の意味を理解するまで時間を要してしまった。
「この大会が終わって、帰ったら結婚しよう」
もう一度、イェナから驚きの言葉が出る。確かに私は彼の恋人で、婚約者だけど。“結婚”という言葉がこんなに突然リアルにやってくるとは思ってもいなかった私はどう返事をするべきなのかも分からない。
明らかに動揺する私の手に触れて、安心させるようにもう片方の手で頬を撫でる。
「オレはこれから先、ナツ以外を大事にするつもりないし。ナツが心変わりする前に手を打っとこうと思って」
「……心変わりなんてしませんよっ」
呆然としつつも抗議した私から、イェナは目を離さない。
「どうかな。殺し屋なんて普通じゃないし。オレは人間らしくもない。いつかナツがオレから逃げる日が来るかも」
それはまるで自分に言い聞かせているかのようで。私も目を逸らせない。逸らさない。
一度だけゆっくりと瞬きをして、息を吸い込んだ。
「──イェナ様。私がたとえ逃げようとしても、絶対に逃さないでください。何があっても、私の手を離さないでくださいね」
「……うん」
私はこの大会が終わる頃にはきっと──過去を失うことになるだろう。全てを忘れた時、私は一体どうするだろうか。イェナにもう一度恋をするのか、それとも恐れて拒否してしまうのか。自分のことなのに、分からない。だから彼には言っておく。
たとえ未来の私が逃げ出しても、しっかりと繋いでいてほしい。それが今の私の望みだから。そうすればきっと、私は──いつかあなたの溢れんばかりの愛情を返せる日が来るだろう。
「……浮気したら殺すから」
「するわけないじゃないですかっ!」
「セリスに誘惑されても?」
「……」
「……やっぱりあいつ殺すか」
「いやちょっ……冗談ですってー!!」
軽快に弾む会話はもういつもの調子だった。このまま一生続いていくのか。それも悪くないなと思う。
「……ずっと一緒にいるんでしょ?それなら黙ってオレと結婚しときなよ」
「は、い……っ」
ロマンチックの欠片もないプロポーズは、どう考えても普通じゃなくて。それでも最大限に彼らしくて──泣きたくなるほどに嬉しかった。
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