第87話


 目頭が熱い。自分のせいでしなくてもいい怪我をさせてしまった。その罪悪感で私の目には涙が溜まっていく。


「──ナツ、何で泣くの」


 溢れてしまった涙を拭うこともできない。きっとイェナにダメージはほとんどないのだろう。平気そうな顔で殴られても微動だにしなかったから。それでも辛いものは辛い。

「恋人が傷つくのを見て平気なわけないです……!」

 私がそう泣き叫ぶとイェナは初めて顔色を変えた。


「……うーん、ナツが泣くのは困るなあ」

 顎に手を当てて考える素振りを見せる。

「オレが殴られてればナツを返してくれるなら、そうしてようと思ったんだけど。ナツが悲しむなら別の手段を考えないといけないね」


 私もロンも呆然とする。ロンは馬鹿にされていると受け取ったらしくワナワナと拳を震わせていた。

「そこから一歩でも動いたらこの女の命はないと思えよ……!」

 イェナはその言葉を聞いてピタリと動きを止める。そして鋭くあまりにも冷たい眼光でロンを睨んだ。



「──ああ、そうか」

 睨まれているのは私じゃないのに、恐怖で体を動かせない。それはその刺すような視線を受けている張本人、ロンも同じのようで、ハッと息を飲む音が聞こえた。


「……俺が何で攻撃しなかったかわかる?」

 低い声。ロンが放った私を殺すとも取れる言葉は、きっと今のイェナにとってのタブーだと言えるだろう。

「ナツを傷つけたくなかったからだけじゃない。その前に取り返す自信はあったしね」


 ロンは禁忌を犯した。イェナがギリギリ保っていた怒りの沸点を超えてしまったのだ。

「ナツに汚いものを見せたくなかった。それにはどうすればいいか、考えてたんだけど──簡単なことだったよ」

 イェナとバチッと目が合うとほんの少し目を細め、笑ったように見えた。


「──ナツ、目瞑って」

「は、はいっ」

 あくまでも私には優しい声で話す。言う通りに目を閉じた。

「耳も塞いで。オレがいいって言うまで」

「……はい!」

 しっかりと自らの耳に蓋をして待つ。不思議と恐怖や不安は感じなかった。





 しばらくはそのままの状態で、周りの状況はほとんど分からなかった。でも割れんばかりの歓声などは感じない。恐ろしく静かだった。


 突然ふわりと体が浮く。抱き上げられているのだ。イェナからまだ許可が出ていないから目は開けられないが、私にはすぐ分かった。この手が誰のものか。


 耳を塞ぐ手を掴まれて、ゆっくりと外される。

「……もういいよ、ナツ」

 目を開ければ案の定、そこにいたのは大好きな人。お姫様抱っこされて目の前にイェナの顔がある。


「こ、怖かった……っ」

 安心感から涙腺が緩む。涙を浮かべる私にイェナの腕に力がこもった。

「……うん」

 彼の首に腕を回して抱きつく。触れ合った頬の温もりに擦り寄った。


「……ごめん、ナツ。泣かないで」

 甘く優しい声は世間で広まっているイェナの印象とは真逆のもので、観客は恐ろしいものでも見たかのように震え上がっている。


 イェナの勝ちを宣言するアナウンスが聞こえ、ロンはどうなったのかと視線を彷徨わせようとするが──イェナによって遮られてしまった。



「イェナ、勝ち抜き戦なんだけど。次はどうする?」

 イェナが私を抱えたままリングを降りる。そしてそのまま入場口へと足を進めた。

「パス。ナツ怪我してる」

 アロがすれ違いざまに尋ねたが、イェナは即答する。ククッと笑ったアロがひらひらと手を振った。

「ハイハイ。じゃあボクが殺ってくるね」

 リングに向かって歩き出そうとしたアロをイェナは呼び止める。


「……アロ」

「なんだい?」

「あいつは殺すな」

「……オーケー」

 首だけで振り返ったイェナの顔は私からよく見えなかった。アロはイェナの考えていることなどお見通しだと言わんばかりに肩を竦めた。


 “あいつ”とは誰のことだろう。でもたった今修羅場から抜け出した私にはそんなことを聞くほどの気力は残っていなかった。


「あ……イェナ様の綺麗な顔に傷が……」

 殴られた時の傷が目に入る。そっとそのあたりを撫でて治癒能力を使おうとすればイェナに止められた。

「そんなの、唾つけとけば治るよ。ナツが力を使うほどのことじゃない」

 この大会が始まる前から、なるべく大衆の前で能力を見せないように言われていた。この力はいいように使われやすいからと。


 だから私は──。


 ──ちゅ


「……今、何したの」

「え……唾つければ治るって……」

 私はイェナの頬に唇を押し付けた。彼は珍しくあからさまに驚いている。

「……違いましたか?」

 不安になって問い掛ければ、イェナは優しく笑った。

「……うん、治った」

「そんなわけあるか!!バカ!!」

 マルが顔を真っ赤にしてツッコむ。イェナの変わらない甘さにまた強く抱きついた。

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