第86話


 一晩が明けて朝が来る。ミルと私を攫った大男(ロンと呼ばれていた)がやってくると、手首を縛っていた拘束具を外し大きな鳥籠のようなものに押し込まれた。もちろん鍵付きで、籠の上から布を被せられて周りの様子は見えなくなる。ロンがその籠を持ち上げて運んでいるのは振動で分かった。


 余計なことをしなければ危害は加えないと言われていたし、激弱な私には為す術もないため籠の中で大人しく待つことにした。何一つできない自分の弱さ加減に初めて憤りを覚える。



 しばらくすると、大きな歓声と熱気を布越しに感じ圧倒された。やはり闘技場の中に来たのか、とため息が出る。

 ミルはどうやら手を貸しただけで、ロンという男が私を攫ってイェナに勝つことを目論んだ張本人らしい。だからミルは目障りであるはずの私を殺さなかったのだ。


 ロンは私が入った籠を地面に置く。試合の始まりを告げるアナウンスとともに更に歓声が大きくなった。おそらくアロのチームが入場したのだろう。彼らの名前を呼ぶ声援が聞こえてくるからだ。


 その名前を聞くだけでホッとした。冷静に振る舞っていたけれど、不安なのは変わりない。震える手を押さえつけて早く彼らの勝利を祈った。

「さぁ、イェナ。出てこいよ」

 ロンの声が彼を呼ぶ。気安く呼ばないでよ!と怒鳴りたくなるほど怒りを覚えた。


 遠くで観客の「イェナが出るのか?初めてだな」と戸惑いと期待の込められた声が聞こえたから、リングに上がったのが黒騎士ではなくイェナだと分かる。物語がどんどん変わっていく。これで未来が変わったのだとしたら……私が意図したわけではないのに、この場合も私の記憶がなくなるのだろうか。理不尽だ。


 そんな不満を抱きながら試合開始のアナウンスを聞き流していた。


「──ねぇ、はやくナツを返してくれない?」

 落ち着いた声。でも明らかに怒りが滲んでいる。そんな婚約者の声に思わず「私はここです!」と叫びそうになった。

「そんなに急かすなよ」

「お前を殺したら居場所がわからないだろ」

 淡々とした抑揚のない声は真っ先に私を探してくれている。それがただ嬉しかった。

「残念ながら死ぬのはお前だよ、イェナ」


 籠が大きく揺れて宙に浮いたのだと分かる。身体がよろけて思わず柵の棒を掴んだ。荒々しくリングの上に置かれたであろう籠。被せられていた布をするりと取られ、目に入ってきた光の眩しさに目を細めた。


 目の前には想像通り、リングに上がっているイェナ。すでにロンとの対戦が始まっているようだ。

「イェナ様……!」

「ナツ、無事?」

 私の顔を見て、それから怪我がないことを確認すると安堵したように肩の力を抜いた。


「イェナ様!はやくこの男やっつけちゃってくださ──」

「うるせぇ!!」

 嬉々としてそう言ったのが悪かった。イェナの顔を見て警戒心が緩んだのだ。


 ガンッという音と衝撃が私を襲う。

「きゃ……っ」

 籠ごとロンに殴られて、大きく揺れた。私はその中で衝撃に耐えられず転がり、柵に背中を強打した。

「ナツ!」

 イェナがカッと目を見開いてこちらへ駆け寄ってこようとするが、ロンが制止する。

「手を出してみろよ、コイツがどうなってもいいならな?」

 頭もぶつけてしまったようで目眩がする。くらくらする視界にかろうじて映ったのは拳をぐっと握ったイェナ。そんな彼の様子を見て、ロンは可笑しそうに笑った。


「心を持たない暗殺者であるお前が大事にしてる女だって?笑わせんな」

「……」

 イェナの表情は読めない。随分と汲み取れるようになっていたのに、それができない。それは私が見たことのない顔──今のイェナは間違いなく、“暗殺者”としての顔をしているのだろう。


「この女に怪我させたくないなら武器を捨てな。反撃もするな。それで俺が思う存分殴ったら、この女を解放してやる」

 ロンが言い終わらない内に、カランと金属音がする。イェナが服の中から鋼線や小型のナイフなど次々武器を捨てていく。


「イェナ様!?なにをしてるんですか!」

「なにが?」

 何でもないことのように、イェナは言った。慌てているのは私とロンと観客。まさかあのイェナがなんの躊躇いもなく武器を捨てるだなんて。


 観客は私にそれだけの価値があるのかと囁き始める。

「ダメですよ!!戦ってください!」

「攻撃されるならオレの方がマシだろ、ナツはすぐ死んじゃうんだから」

 そんな変な理屈で自らやられにいくなんて、ふざけている。でもイェナの顔は真剣そのものだ。

「予想以上にいい働きをしてくれるな、お前」

 にやりと笑うロンに背筋が凍る。いくら強くても、攻撃できないなら意味がない。


「やだ……っ、イェナ様!!」

 抵抗しようとしないイェナにロンが攻撃を仕掛ける。避ける様子もないイェナに私はやめてくれと叫んだけれど無駄だった。


 嫌な音がして、イェナの頬にロンの拳が入る。イェナが攻撃を受けたところなど見たことがない私は思わず目を瞑った。

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