第88話

 

 イェナはナツを抱えて医務室へ向かった。

 極悪非道の暗殺者が少女の心を慮って血を見せないようにしていたのだから、アロも彼女がこの場から去るまでは笑みを剥がさないようにしていた。


 審判の指示でリングに上がる。本来ならばアロが戦うつもりはなく、黒騎士に任せてもよかったが──今回はアロも苛立っていた。


「──さあ、キミは負けたんだからさっさと降りてくれる?」

 肢体はだらんと力が入る気配もなく、喋ることもままならなくなったロンの胸ぐらを掴むと、アロは軽々とリング外へ放り投げる。そして力無く倒れるロンを冷ややかな視線で見下ろした。





 ──ナツが目を閉じた後、すぐにイェナは動いた。

「──お前、殺す」

 ナツには微塵も見せなかった怒りの形相と殺気は観客の肌をビリビリと刺激する。そしてそれは一番近くにいたロンの肌が切れるほどだった。


 チームメイトもイェナのあまりの激情に驚愕する。


 イェナが一歩一歩前へ進む度に圧迫感がロンを襲う。ナツを使って再び脅そうとしても、身体が1ミリも動かないのだ。

「ナツに手を出した奴は許さない」

 イェナが目の前で立ち止まった。ロンは恐怖で口も開けない。


 ロンの首元にイェナの白い手が伸びて、ぐっと力が入った。指が食い込み、息をすることもできない。首を掴まれたまま、ロンの身体はリングに叩きつけられた。


 そして倒れたロンの腕や脚を一本ずつなんの躊躇いもなく折っていく姿はまさに残虐そのもの。ロンは声にならない叫びを上げ、観客は息を呑んで時折目を逸らしていた。


「──イェナ、そろそろなっちゃんを出してあげなよ?」

 異例なまでの静かな試合に口を出したのはアロ。イェナは冷静さを少し取り戻し、視力と聴力を遮断したナツの方を見る。


 檻を力技でいとも簡単にこじ開け、少女を抱え上げる。その手つきは先ほどまで敵の骨を折っていたものとは真逆で、明らかに優しかった──。





 先程のイェナの試合を思い出してゾクゾクとアロの肌が興奮で粟立つ。そして同時に、ナツの泣く顔が頭を過ぎって強い不快感に襲われた。

「──ざーんねん。今はキミを殺さないよ。ボクもなかなか苛立ってるんだけどー」

 リングの上でしゃがむとアロは意識があるのかどうかも分からないロンに淡々と告げる。


「ああ、心配しないで?キミを殺すのはイェナだ。初めてできた大事なモノに手を出されて、彼が平気だとでも?なっちゃんの前では感情を押し殺して平静を保ってたけど、あれはかなりキてるね〜。普通に死ねると思わない方がいいよ?」

 いつもの笑みはない。美形の無表情ほど怖いものはないだろう。デケンやマルはアロがリングに上がると同時にイェナを追って医務室へ向かった。残ったのはフレヴァーだけだ。


「──さ、ここから先は全員でかかってきなよ。さっさと終わらせて二人の邪魔しにいかなきゃ♡」


 にっこりと笑ったアロが四つの屍を踏みつけるまで、5分とかからなかった。






「ったくさぁ……らしくねーよ、やっぱり」

 赤髪をガシガシとかいてマルが深くため息をつく。ナツは背中の打撲痕を手当てした後、医務室のベッドの上でスヤスヤと眠っていた。


「なんで殺さなかった?」

 マルが納得がいかないとばかりにイェナを問いただす。


「ナツは血とか死体を見るのを怖がるからね」

 マルにとって“そんなこと”で終わる些細な理由に開いた口が塞がらない。そして予想以上に大事にされている少女を一瞥した。

「……だからあんなやり方を選んだのか」

「──まぁ、他の奴らにも忠告だよ。二度とこんなことができないように、ね」

「まああれを見てナツに手を出そうとするやつはもういないだろーな」

 なるべく出血はしないように痛みを与えながら、決して殺しもしない。そんな残酷なやり方を目の当たりにして、ナツに手を出そうとするのは今戦っているはずのサイコパスぐらいだろう。


「アロに殺させないってことは、どーせあとで殺すんだろ?」

 “殺さない”──それはあくまでも、ナツの目の前でだけだ。あの程度でイェナの怒りが晴れるわけもない。


 ナツは殺しを好まない。だが彼女は“依頼された者と自分に危害を加える者"は例外だと言ったことがあった。それを思い出して、今回はそれに含まれるだろうと自己完結する。たとえそうでなくとも、ロンがどうなろうと彼女が知ることはない。知らせるようなヘマはしない。


「まあね。このまま終わるわけないでしょ──最も辛くて残酷な方法で殺す」

 それはイェナの“暗殺者”としての顔。ナツが知らない、本来の彼の姿だった。



 ──その試合後、ロンの姿を見た者はいない。

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