第73話

 そろそろ疲れてきたな……と思っていると、足に痛みが走る。恐らく靴擦れだろう。そんな冷静な分析をしていると近づいてくる気配にも鈍感になっていた。


「──ねぇ、何やってるの」

 ──絶対零度の空気。私やノエンを含めたこの場にいる全員がフリーズした。

「オレの恋人に、一体誰の許可をもらって、そんなに近付いてるわけ?」

 シンとした会場に彼の足音と声だけが響く。大声を出したわけでもないのに、やたらと声が通るのだ。

 イェナの漂う怒りのオーラに、周りにいた男性が小さく悲鳴を上げながら秒速で散っていった。


「ノエン、その手を退けなよ」

 その怒りは実弟にも向けられていたらしい。

「……ああ」

 ノエンが私の肩から手を離した瞬間、イェナが私の手を握って引く。足を動かした衝撃でまた痛みが襲った。思わず顔を歪めてしまう。


「……足、どうしたの」

「ああ、慣れない靴で靴擦れしたみたいですね。歩けるので平気です」

「……さっさとホテルに戻って手当てしよう」

「はーい」

 ノエンが私たちのやりとりを見て、目を細める。イェナの私への優しさに弟として複雑な思いがあるのだろう。

「抱えるよ」

 ──え?

 返事をする前にイェナは私を軽々と横抱きにした。

「あああ歩けますってば!話聞いてます!?」

「うるさい。他の男にナツが一体誰の恋人なのか知らしめないとでしょ」

 ノエンを一瞥したイェナが歩き出す。私も慌てて彼に手を振るとノエンは苦笑して振り返してくれた。




 私をそっと車のシートに下ろしながら、手の中にある花束に気付いたイェナ。

「……ねえ、その手に持ってるの何」

「何って、お花ですよ!たくさん貰っちゃいました……」

「……」

 ジッと色とりどりの花を見て、眉間にシワを寄せたかと思うと私の手から花を奪い取ってポイッと投げ捨てた。

「なんで捨てちゃうんですか!?」

「土に返しただけだよ」

 有無を言わさず隣のシートに座ったイェナ。運転手に車を発進させるように告げ、窓に肘をついて頬杖をつく。そのまま窓の外を見上げていた。


「……イェナ様は今まで女性にお花をあげたことはありますか……?」

 窓に映ったイェナの顔はいつもと変わらない無表情。私の声に反応してこちらを振り返った。

「うん、ミルに頼まれて何度か」

 それが何?とでも言いたげだ。

「(あの女……)あ……じゃあ今日も……」

 頬を膨らましてみても、きっとイェナには理解しがたいだろう。ちらりと彼の胸元を見ると花は挿さっていない。拗ねたついでに小さくため息をついた。


「──ナツ」

 優しく髪を撫でられる。まるで「おいで」と言われているようで、イェナの肩に無遠慮に凭れたけれど──もちろん彼は文句ひとつ言わなかった。

「……はい、これ」

 目の前に差し出された一輪の黒い薔薇。黒い薔薇なんて初めて見た。異質だけど、ひどく美しい。

「え……これ、イェナ様の……?」

 凭れていた頭を起こしてイェナを見上げる。窓から差し込む月明かりが黒髪を照らして見惚れてしまう。


「……今までこれはオレにとって意味のないものだったからミルにあげてたけど、ナツにとっては意味のあることでしょ、きっと。それならもうナツ以外にはあげないよ。だからナツも、他の男からはもう貰わないで」

「はい……」

 なんて甘美な言葉だろう。今までもらったどの花よりも慈しむように受け取り胸に抱きしめた。

「ナツがオレの花を他の女にあげたら嫌なように、オレもナツが他の男から貰って平気なわけじゃないから」

 私が他の人に口説かれて平気じゃない。自分は他の人を口説いたりしない。


 そう言われて私の顔は蕩けそうなほど火照っていた。

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