第29話
「……おはよ、ナツ」
「おはようございます、ノエン様」
朝食後、屋敷の廊下で出くわしたのはノエン。昨夜呼び出されていたのに、イェナが部屋から出してくれなかったため断らざるを得なかったのだ。
「昨晩はすみませんでした」
慌てて深々とお辞儀をすると、ノエンは思い出したように「ああ……」と声を漏らした。
「別にいーよ、兄貴に嫉妬させたら後が面倒だしな」
この間のことを思い出してか、口元を引きつらせるノエン。イェナからの伝達はきちんと伝わっていたようだ。気分を害した様子はなかった。
「どのようなご用件だったんですか?」
「いや……大したことじゃないんだけど」
私が尋ねれば、途端にもごもごと言い辛そうにする。何か、頼みにくいことだろうか。だとしたら私で役に立つのか疑問ではあるが。
「……なあ、ナツ」
「はい」
キョロキョロとあたりを見渡して、誰もいないことを確認すると……ぽつりと呟く。小さな声は、私にしか聞こえないくらいだ。
「──俺、家を出ようと思ってる」
ノエンが静かに発した言葉に、私は驚かなかった。この先の未来を知っているからだ。こうなる日を最初から分かっていた。むしろこうならなければ困るのだ、未来が変わってしまわないように。
「……理由を、伺っても?」
ノエンが私に相談してくれたというのは予想外だったが。ここから、きっと物語は大きく動き始める。その序章を感じさせるノエンの決意に、ごくりと喉を鳴らした。
「……もう、殺しはしたくない。こんな家庭に生まれてそう思うなんて俺ってどっかおかしいのかな」
弱々しく吐き出された本音は、分かっていても胸を抉られたような気分になる。ノエンの純粋な瞳を覗き込んだ。この瞳は、これから大切な仲間と出会って、様々な経験をして──もっとキラキラと輝いていく。ノエンにとって、かけがえのないものが未来に待っているのだ。その邪魔を、私はしたくない。
「……ご家族と同じものを好きでいなきゃいけませんか?」
「……え?」
背中を押すようなことを言って、マヴロス家の人にバレたらきっと怒られる。最悪、殺されるかもしれない。それでも私はノエンの瞳を見つめ返す。
「あなたはあなたの価値観を持って生きているのですから、家族だからといって同じでないといけないことはないですよ。あなたにとっての“当たり前”が、他の人にとって“当たり前”でないのと同じように……他の人の“当たり前”が、あなたの“当たり前”にならなくても──何もおかしいことはありません」
確かにノエンは私の“推し”ではなかったけれど……彼の生き方は、好きだった。自分の信念を曲げず、敷かれたレールをすべて剥ぎ取って新しく自らの手で自分の歩く道を築いていく姿。それを純粋に見たいと思う。生き生きとしたノエンの姿は、たくさんの読者を虜にしてきたのだから。
「止めないのかよ」
「止めませんよ、それこそマヴロス家の家族ではない私が口を出すのはおかしいでしょう」
私が笑いかけると、ノエンは安心したように──息を吐いた。
「……さんきゅ、兄貴がお前に執着するのも、分かる気がするわ」
「はぁ……」
執着……して、くれているのだろうか。弟であるノエンが言うのなら少しは説得力がある。
苦笑した私に、ノエンがポン、と頭を軽くたたいて背を向ける。
「……またな」
ひらりと手を振って、原作で何度も見た朗らかな本当の笑みを、この世界に来て初めて見せてくれたのだった。
──その翌日、ノエンは原作通りマヴロス家を出ていった。
これから彼が歩む道のりが、私が見てきたように……たくさんの愛情と幸福に満ち溢れていますように。そう願いを込めて、屋敷の窓から彼の背中を静かに見送った。
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