第28話


 必死で制止する私を見て小さくため息をついた。

「面倒くさいな」

「せめて部屋に戻って着替えさせてください……」


「だめに決まってるでしょ」

 私の要求は受け入れてもらえない。


 それでも一向に引こうとしない私をじっと見つめた後、また息を吐いた。

「……はぁ、仕方ないな……」


 起き上がるとベッドから出てクローゼットを開けたイェナ。何をする気かと私も起き上がって見ていれば、いつも彼が来ている黒いシャツを放り投げられる。


「これ着なよ」

「イェナ様の……ですよね」

 恐る恐る尋ねれば、「なにを言ってるの?」と鼻で笑う。


「ここには女物なんてないし。それが嫌ならアンにでもナツの着替え持ってきてもらう?」

 これが彼の最大限の譲歩で、私をこの部屋から出す気はないらしかった。


「……いえ、これがいいです」

 アンに頼むなんて、後でどれだけ揶揄われることか。この部屋から脱出することは諦めて、主の提案に乗るほかなかった。



 イェナには後ろを向いてもらい──「なんで?」とデリカシーの欠片もなかったが──急いで着替える。背の高いイェナのシャツ一枚ならワンピース丈で着ることができた。所謂“彼シャツ”といったものか。


 着替え終わるとすぐさまベッドに呼び戻された。

「……うん、これでいい」

 再び向かい合って抱きしめられる。胸元に顔を寄せるとイェナの香りが鼻を擽った。


「……ナツ」

「……はい」

 いつもよりゆったりと柔らかさを感じる口調だった。イェナにも“眠気”というものは存在するのだろうか。


「……おやすみ」

 そういった彼に、同じ言葉で返すと──単純な私の脳みそは、眠気という欲求のままに瞼を下ろした。







「──ん」

 窓の外が明るいことに気が付いて、目を開ける。そばにはイェナがいて──その顔を見上げると、驚いた。


「……寝顔……」

 目を閉じて、ぐっすり眠っているではないか。いつもの無表情とは違って、ひどくあどけない寝顔だ。


「か、かわいい……っ」

 身動きすると彼が起きてしまいそうだから我慢したが、内心悶えていた。こんなレアなシーンは原作の読者はもちろん、家族くらいしか見たことがないだろう。


 しばらくの時間彼の寝顔を堪能していたが、腰の辺りに静かな重みがあるのにふと気が付く。イェナが腕を回したまま、眠っていたのだろう。ふふっと笑みを浮かべると、イェナがもぞもぞと身じろぎした。


「……あれ、起きてたの」

 寝起き特有の掠れた声がやけに色っぽく聞こえる。「おはようございます」と言えば「うん」と私の頭をひと撫でした。

「──よく眠れた。抱き枕がよかったからかな」

 今度は抱き枕要員か、と苦笑する。だけどぐっすりと眠れたのはこちらも同じだった。


「……あの少女漫画とやらも、あながち間違っていなかったみたいだね」

 “抱きしめてもらったら落ち着く”という理論か。思わず頬が緩む。


 ──だって、その理論は……どうでもいい人には、通用しないもの。彼が私を抱きしめて、そう思ってくれたのだとしたら。それはもう、“期待”してもいいじゃないか。


「……イェナ様、今日も大好きです」

「うん」



 メイドの朝は早い。しなくてはいけない仕事も、もう間もなく始まってしまう。だけど──もう少しだけ、この自分勝手でよく分からない婚約者の腕の中で、喜びを噛み締めていたい。

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