第10話


「……言っておくけど」

 イェナが静かに告げる。安定の無表情は崩すことはない。


「ナツはオレの婚約者でもあるから」

「はぁ!?兄貴の!?」


 突飛とも言える発言に、さすがの弟でも驚きは隠せなかったらしい。叫び声が静かな廊下に響いた。


「どんな風の吹き回しだよ!女に興味なんてあるのか!?」

 捲し立てるノエンは私とイェナを交互に見る。

「あるわけないでしょ」

 淡々と言ってのけたイェナ様に、大きくため息を吐くノエン。同情するような目をこちらに向けた。


「……政略結婚ってやつ?」

「違いますよ!」


 誤解を招く言い方に慌てて否定するが、ノエンは無理やり婚約させられたと思い込んでいるようだ。多少強引であったことは否めないが。



「やめとけ、ナツ!俺の方がお得だぜ?」

 ぐっと私に顔を近づけて彼が言った途端、空気が一変する。


「──ノエン」


 イェナの身体から黒い煙のようなオーラが放たれ、あたり一帯を侵食していく。


「うわっ、すげぇ殺気……」

 慌てて私たちから距離を取るノエン。額には冷や汗をかいて脅えているようにも見える。私は目に見えるオーラ以外は何も感じないが、よほど危ないものなのか。


「……やべー、アレ誰か殺さないと収まんないぜ?」

 ご愁傷様……と言わんばかりに哀れみの目をこちらに向けられる。


 その“誰か”とは、私なのだろうか。殺されはしないはずなのだけれど。


「てゆーかお前あんな殺気浴びて大丈夫なのかよ?激弱のくせに」


 どうやらこのオーラは体に害を及ぼすものらしい。だが一番近くにいる私には何の影響もないようだ。


「え?あのモヤーッとしたヤツですか?」

 私の語彙力のなさに呆れたような顔をするノエン。



「……お前……弱すぎて、殺気すら感じとれないのか……ある意味最強だな……」


 馬鹿にされた。


 だが確かに、どれだけ強く禍々しい殺気を放ったところで、私には何も感じないのだから今はこの一般人以下の強さに感謝するしかない。


「ノエン。ナツが欲しいならオレを倒してからにしなよ」


 イェナが大きな丸い目を、初めて会ったときのような──暗くどこまでも深い黒に染めて、暗殺対象を見るかのような鋭い視線を投げかける。


「──ダメですっ!」

 思わず出した声に、イェナの動きがピタリと止まった。こちらを振り向く彼の顔はいつもの無表情。


「私はイェナ様が大好きなので、ノエン様のモノにはなれませんっ!」


 確かにノエンも好きなのだけれど、あくまでも私の推しはイェナ。セリスの次にだけど。


 ぐっと握り拳を作って力説すれば、イェナの雰囲気がガラリと変わった。


「……うん、いい子だね」


 イェナの背後にあった、“殺気”と呼ばれるあの黒いオーラが消えていく。私の頭を撫でる手はとても優しかった。


「殺気がおさまった……マジで?」


 一瞬にして消え去った殺気と頭に置かれたイェナの手を見て心底驚いたとばかりに目を見開くノエン。


「……ナツ、お前スゲーな」

 感心するような視線が訳も分からなくて首を傾げた。大層なことはしていないと思うのだけれど。


「……いつまで話してるの、殺すよ」

「ふぁいっ!行きましょう!行きましょう!」


 掴まれたままだった手首を引かれ、機嫌が直ったイェナに引き摺られるように足を進めた。






「──あんな嫉妬バチバチの兄貴……初めて見た。あんな女が好みだったんだー」


 取り残されたノエンは頭の後ろで手を組んで2人が去っていく背中を見つめていた。


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