文化祭☆ 澤平斗真という人物
カラカラに喉が渇いていた。今までの謎がするすると解けていく。
つまり、ぜんぶぜんぶ、神谷は約束通りに動いていたのか。あたしが割った、っていうあの言葉も、放送室の鍵を借りたのも。
……そこまでして、お前が遊びにこだわる意味が分からない。
澤平は一度息をつくと、今度は神谷に視線を向けた。
「あんたはこんなこと考えないんだろうね。毎日楽しそうにしてるし。ぜひオレにもその秘訣を教えてほしいね」
肩をすくめて
「こんなことって?」
「世界は広いはずなのに、何をちんたらオレは生きてんのかなって」
「なら、わかるよ、それ」
ひと息にも満たない間で返される。
その言葉を反芻して二拍。……俺は耳を疑った。澤平も眉を跳ね上げる。
「は——?」
「だからあたしは斗真と話したいと思ったし、遊びたかったんだ」
ワイシャツの襟が揺れた。首元を冷たい風が撫でていく。慌ただしくすずめが鳴き、カラスがザラついた声をあげた。
*****
「良かったんですか? リボン離しちゃって」
春野こころは、せいらの姉、佑月に訊いた。
「うん。私に止められないし」
「渡辺くんが行っちゃいましたけど」
「なんだかんだ、陽介くんはせいらに振り回されるの好きだよね」
ふふ、と口元に手をやる。その所作は優雅で、どこにも彼らを心配している様子はない。
「落ち着いてますね」
「向かったのがせいらだからね」
「信頼してるんですね。私は不安でいっぱいです……」
「家族だからね、知ってるの。せいらが人の自殺に負けるわけないって」
目をぱちくりさせる。
「……佑月さんって、本当せいらちゃんのこと好きですよね」
「あら、もちろんよ」
「こんなこと言うのもあれですけど、綾子さんやさっきのおばあさまは、あまり佑月さんみたいな愛は感じないというか」
佑月は苦笑した。
「お家の格を保とうとしているからよ。あの人達にもちゃんと愛はあるわ。そうじゃなきゃ、文化祭を見になんて来ないでしょ?」
ふむ、とあごに親指を置く。たしかにそうだ。
「でも、せいらちゃんは嫌ってそうですけど」
「うーん、そうなのよねぇ……」
「逆になんで佑月さんには懐いているんですか?」
そう訊くが、この人に懐かない妹なんていないだろう。
すると輪郭を一瞬だけ震わせて佑月は答えた。
「単純な話よ。私が甘やかしてるから」
少し恥ずかしそうに首を傾ける。
「あとはあれかしら。ちょっとだけ、羨ましかったからかしら、せいらのことが」
遠い空に溶け込むように、佑月はそっとまつ毛を下ろした。
「あの天衣無縫で自由奔放な子は、どんな世界を生きているんだろう、って。たぶん、あの邸で私だけが同調を望んだ……」
自在に操れる肢体、自分達には無い考え。血は繋がっているのに、まるで違う妹は、佑月には無いものを持っていた。
知りたかったのだ。そして体験したかった。彼女の世界を。
「そうしたら自然と甘くなっちゃった。次はどうなるんだろう、何するんだろう、って続きが見たくて止められない。だから実際には、自分勝手な思いばかりで、私はなにもあの子にしてあげてないの」
困っちゃう、お姉ちゃん失格ね、と微笑む佑月に、春野はきっぱり首を横に振った。
「そんなことないです。佑月さんはたくさんたくさん、あげてます。大事なもの、たくさん」
だって、せいらは佑月を誇らしげに自慢する。東京に就職してしまうことを寂しそうに語る。
「甘やかしてるんじゃなくて、それは努力です」
『変』と片付けるのは簡単だ。だけどそれをしないで彼女を理解しようとした。歩み寄ろうとした。それを努力と言わず何と言おう。
佑月のおかげで、せいらは孤独じゃないと、春野は思うから。
「そう……なのかな」
「そうです。全然、失格なんかじゃないです」
すると、そっか、と佑月は顔を俯けた。どこか嬉しそうに。
ずっと気にかかっていたのだろう。それを見て、春野は安心した。しかし同時に、では自分は? と自身に問いかける。
「私は、ダメですね。せいらちゃんのことはもちろん好きです。だけどその言動を紐解こうなんて、はなから諦めてました。諦めたというか、無理だって決めつけて、そんなこと考えもしなかった」
きっと、
春野はもう一度、屋上に視線をやった。彼らがいる場所。
飛び降りようとしているのが誰だか知らないが、佑月が大丈夫と言うのだから、もう心配はしない。
せいらはあの男子生徒に勝つけど、ではどうやって勝つのだろう。
確かに、続きが気になる。
*****
俺は目を見張る以外、何もできなかった。
「ずぅーっと日常が続く毎日、非日常なんて来ない。スリルも無ければ、いのちの危険を感じることなんて滅多にない」
落ち着いた声で、神谷はもう一度「わかるよ」と言った。
「だから自分でハプニングを作ったんでしょ?」
澤平は答えなかった。それが答えだった。
「斗真、文化祭で盛り上がるみんなのこと、冷めた目で見てたから。だから興味が湧いたんだけど……」
神谷は言葉尻を濁して首筋をさすった。リハーサルで『さじ加減を間違えた』と言っていた時と同じ顔。
「おっかしいなぁ。猫に似てるから仲良くできると思ったんだけどなぁ」
「は? オレが猫?」
「そう。うちによく来る猫。あ、この話聞く? あのね、出会いはあたしが」
「いや、結構です」
あれかな。もうすぐ寿命のネコチャンかな。
「で? それがオレに近づいた理由?」
「うん。だってせっかくのお祭りだから、楽しまなきゃ損だよ。あたしと遊んでくれれば一発で堕としたのに」
堕と……。不吉極まりない。
「……つまりなに。あんたはオレのために付き纏ってたってこと?」
澤平の声が一段低くなる。
「いいや。斗真のためというより、同族意識なのかな、斗真なら、あたしと遊んで楽しんでくれるかもって、嬉しかったから」
「はぁ? あんたと同じにしないで」
「もちろん違うよ。誰も彼も同じじゃない。その証拠に、あたしはこんなことしないし。やるならもっと違う方法だよ」
そこで神谷は一旦言葉を切った。
そして無遠慮にずかずか鉄柵に近づく。澤平は顔を顰めた。
「ちょっと、それ以上近づかないで。飛び降りるよ」
「あたしはね、斗真のおかげでかなり楽しかったんだけどね。姉はたぶん、一般的には違うって言うよ」
静止も聞かない。澤平が手を離そうとしているのに。
慌ててリボンを引っ張ると、存在を思い出したかのように神谷は俺を振り返った。
「そうだ。良いこと思いついた。陽介、そこのドアノブにリボンの端くくりつけてよ」
「え?」
「いいからいいから」
ニヤリと笑われて、素直に従うはずがない。しかも楽しそうだからなおさら。神谷の「良いこと」はたいてい、俺らにとってとんでもないことだ。
「大丈夫だってば。約束するよ」
「信用できるとでも?」
「あたしが絶対って言ったら絶対大丈夫だから。大丈夫じゃない方法もあるけど、あ、そっちにする?」
「……」
その妙に説得力のあるセリフに、気づけば手が従っている。
「外れないようにね」
俺はほんとは意志が弱いのではないか。悲しくなる。
しかし、今まさに作業をしているドアの向こうが、なにやら騒がしい。
その足音と声からして、先生たちだと判断する。
「ようやく来たか……」
せめて先生が来るまで時間稼ぎができたらと考えていたが、ずいぶん遅い登場だ。
会話の代わりにゼェゼェと荒い息だけが響いている。ああ、お疲れ様です。
ギュッと結んで、外れないことを確認する。しかしこんなことして、あいつは自分の腹でも抉られたいのか? 屋上と校舎をつなぐドアは、内開きだ。もし先生たちが勢いよく開ければ、いくら長さが余っているとはいえ、リボンを腹に巻きつけている神谷は「ぐえっ」ってなる。
しかしそれは杞憂だった。神谷はいつのまにか腹からリボンをはずし、代わりに手のひらに巻き付けていた。そうするともっと弛んで、足元に蛇みたいに広がった。
「じゃ、よーすけ、先生たちをよろしくね」
「……——は?」
そう言って、変人は澤平からたっぷり後退し——そしてドン、と距離を詰めた。
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