神谷家

 学校の駐車場には黒い車が待ち構えていた。制服に着替えた春野と並んで、俺は後部座席に腰を下ろした。


 相変わらずジェスチャーが気持ち悪いので、綾子さんにやめさせてほしいと進言した結果、神谷の口は解禁された。「桃太郎のお供にイノシシがいたらどうなってたかなぁ」。開口一番に言うセリフがそれか。意味わかんねぇ。


 そんなこんなで車に揺られること三十分。なんだかずいぶんと田舎の風景に変わり、ようやく「着きました」という声がかかった。

「ねぇ、この前せいらちゃんさ、家まで『走って三十分』って言ってなかったっけ……? 車で走ってってこと……?」

「もう考えるだけ無駄だろ」

 そうだね、と顔色悪く春野は頷いた。曲がりくねった山道に、どうやら酔ってしまったようだ。

 俺も気分が良いわけでは全くない。まさか『ハッピーバースデー』の歌をお経調子で歌われるとは思ってもみなかった。産まれたのか死んだのか……。作曲した当の本人である神谷は至っていつも通りだ。

「ただいまー」

 奴は車を降りると、玄関ではなく塀を軽やかに飛び越え、その向こうに消えた。「危ないでしょ!」と綾子さんが叱るが、返事は聞こえない。家でもやっぱり神谷はかみ……。


 ——んなことより。


「おい……」

「うん……これ全部せいらちゃん家……?」

「で……」

 でかい。

 右を見ても左を見ても白い塀が続いている。瓦屋根が塀の向こう、遠くに見える。それだけで庭の広さも推測できた。

 俺と春野は、その敷地の広さに唖然としていた。うちの何個分だ……?

「お二人とも、こちらです」

 声をかけられ、ようやく我に返る。

「あ……は、はい! お邪魔します!」

 綾子さんに中に入るよう促され、俺たちは制服のしわを伸ばしながら門をくぐった。


「う、わ」

 思わず溜め息がこぼれる。

「日本庭園……」

 隣で春野が呟いた。

 庭には紅葉や銀杏、そのほか低木が夕陽を受けて影をつくっており、さらに中央には、苔石が池を縁取ふちどって横たわっている。池の中では白と赤の錦鯉がのんびりと泳いでいた。

「どうぞ中へ」

「は、はいっ」

 引き戸が開かれる。とうとう足を踏み入れるのかと思うと、緊張が増した。

「おかえりなさい」

 凛とした声が耳に飛び込んできた。視線を向けると、赤いセーターを着た若い女の人が玄関戸の向こう、左手前の部屋から顔を覗かせていた。

「ただいま」

「あら、お客様?」

「ええ。佑月、門の前に車停めてるから中に入れておいてちょうだい」

 俺たちはいそいそと中に入り、小声で「おじゃましまーす」と言った。

 女の人がすれ違いざま「ゆっくりしていってね」と微笑みかけてくれた。

「……きれいな人だね」

「……ああ」

 神谷の家になんでこんな優しそうな人がいるんだ。さらってきたのか?



 暖色の廊下をひたひたと進む。そうして案内されたのは八畳部屋だった。日本家屋によくある和室だ。床の間には小ぶりの黄色い花が活けられており、部屋の中心には長方形の茶卓が置かれてある。そして障子の向こうには先ほどの庭が広がっていた。

「どうぞおかけ下さい。お茶をお持ちしますね」

「ありがとうございます」

 厚い座布団の上で慣れない正座をする。足が痺れる未来がチラリと見えた。


 綾子さんがどこかへ行き、部屋に春野と二人になった。静かな空気の中、「すごいな」「すごいね」「この調子じゃ、抹茶とか出てきかねないな」「抹茶飲めない」などと言い合っていると、襖がパァンッと開いた。綾子さんが戻ってくるには早すぎる。

 神谷(娘)だ。

「イノシシは草食? 肉食?」

 は?

「場合によっちゃ、桃太郎に襲いかかることもあり得るわけだよね」

 ……なんの話かと思えば、まだそれ考えてたのか。

 神谷の手には盆が、そして盆の上にはホールケーキがのっかっていた。お前、裸足で寒くないの?

 神谷は卓にケーキを置くと、俺の前に座った。

「わぁっ、おいしそう〜!」

 春野が目を輝かせて喜ぶ。直径十五センチほどのショートケーキだ。円状に並んだいちご達がルビーのようにみずみずしく光っている。

 神谷は誇らしげに無い胸を張った。

「ふふ、姉がつくったケーキだよ」

「姉……?」

「うん」

「お前、姉ちゃんいたのか」

「え? さっき会わなかった?」

 俺と春野は顔を見合わせた。そんな人いたか? 神谷の姉ちゃんなんて想像もつかない。どんな変人だ?

 沈黙して数秒。

 春野が「もしかして」と青ざめた顔で言った。


「あの、赤いセーターの美人さん……?」

 え。

「せーいかーい!」

 神谷は卓を叩いて喜んだ。

「姉は料理上手だからね。裁縫も琴も花もなーんでもできる。就職のために今度東京に行っちゃうんだあ」

 そして四等分に切られたケーキをそれぞれ小皿に分け始めた。

「うそだろ……」

 縦ではなく横に包丁が入れられていることに驚いているわけではない。一番上の人だけいちごが乗ってて不公平だとか考えてない。

「お前にそんなできた姉ちゃんがいたなんて……」

 だっておかしいだろ。綾子さんといい、なんでこんな奴の家族がちゃんとした人間なんだよ。遺伝子どうしたんだ。

 いや、まて。違うな。なんでこんな立派な家庭で神谷ができあがったんだ、だな。

 そこで俺はあることに思い至った。そう、逆転の発想だ。つまり神谷が攫われた方なのではないか。


「お前、そろそろ巣穴に戻ったほうがいいんじゃないか……?」

「え?」

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