第三章-2

 四度目の夜は雨だった。今まで彼が経験した今日という日は、いつも満月だったというのに。

 人々が寝静まる頃、ランプの光だけが二人を照らしている。火は寂し気に灯り、誰かの助けを求めているような頼りなさで揺れていた。

「どういうことだよ、魔王って。冗談にしても笑えないぞ」

「言葉通りの意味としか、私には言えない」

 戸惑いと混乱。エヴァの言っていることが理解できなくても、彼女の口から出た言葉はカインを不安にさせるには十分だった。 

「じゃあ、エヴァは魔物なのか?」

「いや、私は人間だよ」

 彼女の口から出てくること全てがカインの想像の範疇を超え、混乱は加速した。聞きたいことも分からないことも沢山あるのに、言葉にならない。何を聞けばいいのか纏まらず、二人の間に沈黙が訪れる。

「いきなりこんなこと言っても分からないよね。じゃあ、私たちが出会った日のことから話すよ」


 それはカインとエヴァが出会う少し前のことだ。

 その日、平和だった小さな村は一瞬の内にして地獄へと変わった。村人の数を優に超える魔物の軍勢は、皆殺しにしても尚お釣りがくるほどの戦力だった。逃げることも、抗うことすら許さずに噛み、切り裂き、引きちぎる。エヴァの両親も像が蟻を踏み潰すが如く、呆気なく魔物に肉塊へと変えられた。

 エヴァは逃げようとした。どんな人間にも備わっている、死にたくないという生存本能に従って足を動かそうとする。しかし、あまりの光景に狂乱状態となった幼い心は体と完全に離別し、迫りくる魔物を前に指一本すら動かせなかった。

 自分もそこら中に転がる肉塊と同じになると悟った、その時だ。そこで起こったことは、当時の少女には到底理解できない出来事だった。

 魔物たちは一斉に彼女の前にひれ伏したのだ。一糸乱れぬ統率で、まるで従順な子犬のように。

 そして魔物たちは語り掛けた。言葉を話すでもなく、身振り手振りをするでもなかったが、エヴァには魔物の声が聞こえた。

 ――ああ、我らが主よ。

 悪い夢を見ているようだった。掛け替えのない家族を殺し回った魔物が、一変して従者のように振舞うのだ。しばらくそうしていると、魔物たちはどこかへ姿を消していった。


「その時はまだ子供だったし、私には何も分からなかった。運がよかったから殺されなかっただけだと思ってた」

 彼女が全てを理解したのは、魔物との戦いに参加したある日だ。

 仲間と逸れて森の中を彷徨っていた時、一匹の魔物に出会った。衛生兵として働いていたエヴァが直接魔物を見るのは二回目だった。

 すぐに逃げ出そうとした時、聞こえてきた声には既視感があった。脳内へ直接届けられ、人の言語ではないのに、はっきりと意味が理解出来る感覚。

 足を止めて振り返ると、またも魔物が跪いていた。借りてきた猫のように大人しく、彼女を崇める意味の言葉を何度も発し続ける。そこでエヴァは初めて、魔物と対話した。

「あなたたちは何?」

 ――我々は人間を殺すことを目的に生まれた存在であります。

「どうして人を殺すの?」

 ――それが我々の存在意義だからです。

「どうして私を殺さないの?」

 ――それは、あなたが長だからです。我々はあなたの命が尽きるその時まで、人を殺し続けます。

「どういうこと?」

 ――我々は皆、あなたが生を受けた時より生まれました。あなたの命と共に生き、あなたの死と共に死ぬ。

「人を殺すことはやめられないの?」

 ――それは出来ません。我々は全面的に服従します。仰せとあらば、たとえあなたであっても殺します。しかし主の命令であっても、人を殺すことを止めるのは不可能です。


 カインはその話を、感情ではとても信じられなかった。

 しかし二度も魔物に殺されず、増してや崇められたのだ。魔物が生まれたと言われている時期と、エヴァが生まれた時期も一致している。

 否定したかった。だがもうカインには、否定する為の材料が残っていなかった。エヴァが魔王であること。それは認めざるを得ない事実だった。

 散らばっていた点と点が繋がっていく。記憶が走馬灯のように駆け巡り、真実へ至らせようとする。

 それは彼にとってあまりに残酷で、救いのない真実だった。


「その日から、私のせいで今この時も人が死んでいるっていう罪悪感であった。だけど死ぬのが怖くて、ずっとどうしたらいいか悩んでた」


 そこから先は聞きたくなかった。


「だけど決めたの。魔物との戦いで戦死したことにして、全部終わりにしようって」




 長い、本当に長い旅路の末、カインはようやく真実に辿り着いた。

 エヴァが魔王だったこと。彼女が死なない限り、魔物は消えないこと。何度繰り返しても必ず彼女が死んでしまう理由。彼女が自殺した理由……

 その感情は怒りだった。悲しみだった。虚しさだった。そして、絶望だった。

 どれだけ追い求めても手が届かないことを知り、カインは頭を抱える。そうしていても、何か良い考えが浮かぶわけではない。だが彼はそうするしかなかった。その様は、まるで小さな子供が体を縮めて身を守っているようだった。

 ランプの灯が弱まる。月の光も届かない漆黒、二人の顔を照らしていた炎は今にも消えそうだった。

「もう暗いから寝る? 疲れたみたいだし、私も話したら眠くなってきちゃった」

 そう言うエヴァはランプを手に取った。暗闇で見えるのは彼女の細い指だけだ。いつもどおりの声音でそう言う彼女が、今どんな顔をしているのか想像もできない。

「……そうだな」

 ランプを持ったエヴァが、二段ベッドの上に登ろうとする。

「どうしたの?」

 カインはエヴァの腕を掴んでいた。ランプの光が離れていくにつれ、まるで彼女が遠くへ行ってしまうような気がしたのだ。

「傍にいてくれないか」

 彼女はただ、うん、とだけ言った。エヴァはランプの灯を消す。そしてカインの手に導かれ、狭いベッドの中で身を寄せ合った。

「一緒に寝るのなんて久しぶり……って、カインは何度もあったのかな」

 胸の中のくぐもった声は、心の奥の方を温かくさせた。彼女という存在がそこにあることを、確かめさせてくれる。

「ねえ、さっきの話、びっくりした?」

「……そうだな」

「私もカインの話はびっくりしたよ。最初は隠し通すつもりだったけど、駄目だったね。今は肩の荷が下りた感じで、ちょっと心が楽になった。何にも解決してないのにね」

 エヴァの体は震えていた。

「最近、よく眠れないの。きっと明日も、私のせいで沢山人が死んじゃう。その人たちの声が聞こえてくるの。痛い、怖い、死にたくないって。皆苦しんでるのに、私は図々しく生きてる。住む場所があって、食べるものがあって、好きな人もいる。それが凄く……申し訳なくて……」

 嗚咽はカインの心に、杭を打つように突き刺さる。エヴァの熱い涙が染みた。

「生きててごめんなさいって……毎日毎日思ってる。早く死なないいけないのに……私……死にたくない。死ぬのが怖くてしょうがないの。生きるのも……死ぬのも……どっちも怖い。どうしたらいいのかな……?」

 気づけばカインも涙を流していた。彼女の痛みに気づけなかったこと、痛みを共に背負うことが出来ない事実は、涙を止めどなく溢れさせた。

「もう……いいんだ」

 彼女の細い体を抱擁する。繊細で、弱弱しくて、強く抱きしめれば壊れてしまいそうな体だった。 

「明日になったら……どこかに逃げよう。きっと、別の方法があるはずだ。見つかるまで、二人で探そう。

 誰が何て言ったって関係ない。最後の最後まで、俺はエヴァを守る。だから、もういいんだ」

 エヴァの腕が背中に回る。互いの体温が、心の傷口を埋めあった。

「……ありがとう。今日は、よく寝られそう」


 次の日の朝は虹が掛かっていた。

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