第二章-3

 魔王に挑むまでの一週間、大きく変わった出来事はなかった。エヴァが隣にいないことを除いて。

 毎日寝る間も惜しんで剣を振った。魔王を倒せることは分かっている。それでも剣を振っていなければ不安で頭がおかしくなりそうだった。

 出発の日、町の人は総出で討伐隊の生還を祈った。幸いなことに、討伐隊の中にエヴァの姿はない。そこでカインはひとまず安心した。

 行進中、カインは人の波を見渡す。エヴァの姿を探していた。人込みから少し外れたところ、そこにエヴァはいた。一瞬目と目が合うが、エヴァはすぐに視線を逸らす。

 この戦いに勝ったら、すぐにエヴァに謝りに行こう。そして今度こそ、魔物がいない世界でエヴァと暮らそう。カインは全ての迷いを絶ち切った。


 魔王との戦いは、カインにとって呆気ないものだった。決して犠牲者が減ったわけではない。それでも呆気なかった。

 予想通りに動く敵の攻撃を避けるのは難しくない。戦いに慣れた今の彼には、退屈さすら感じさせる時間だった。唯一予想できなかったのは、魔王の最期だ。エヴァを殺した時のように襲い掛かってくると思い、カインは身構えていた。しかし止めの一撃を加えた魔王が起き上がることはなく、その場から動かなくなってしまった。

 最初に感じたのは、肩の荷が降りたような感覚。

 もう偽りの自分を演じなくていいという思うと、すっと心が楽になった。これからは本当の自分でいられる。ようやく新しい明日を迎えられる。

 六年ぶりに感じた喜びはあふれ続けた。この喜びを、今すぐにでもエヴァと分かち合いたい。そんな思いを胸に、カインは意気揚々と帰路を辿った。

 町に戻ると、彼らの帰還を待ちわびていた人たちが祝福してくれた。その景色は、一回目の世界と何ら変わらない。だが今のカインの心は全く違う。初めてこの景色を見た時は、家族を失った喪失感と後悔しかなかった。喜びや達成感、誇らしさなど感じなかったし、そもそもそんな言葉すら浮かんでこなかった。

 しかし今ならば、彼らの労いを素直に受け止められる。自分が多くの命を救ったのだと実感し、胸を張って歩いた。

 凱旋が終わった後は、死んでしまった仲間たちの埋葬だ。

 何時間も掛けてエヴァの死体を埋めた時のことを思い出す。あの時の彼は、後悔と無力感に苛まれて、周りのことなど気にも留めていなかった。だが改めて見てみると、息が詰まるほどに悲しい気分にさせられる。流石に一人で埋葬をしようとしている者はいなかったが。

 十字架の前に跪いたまま、動かないでいる仲間がいた。魂が抜け落ちたような、無気力な表情。死人の方がまだ豊かに見えるほど、彼の表情は死んでいた。かと思えば急に歯ぎしりを始め、荒い呼吸で涙を流す。そうやってしばらくするとまた死んだ表情で、茫然と十字架に刻まれた名前を見ていた。

 とても他人事には思えなかった。エヴァが死んだ時の自分はこういう風だったのだろうと容易に想像できる。カインは彼と話したことはない。しかし彼の気持ちは痛いほどに伝わる。

 声を掛けたかった。それがどれだけ痛くて苦しいのか分かるからこそ見ているのが辛くて、励ましてあげたかった。

 だがカインは何も言わずに立ち去った。何を言われたとしても、余計に虚しい気持ちになるだけだと分かっていたからだ。


 宴がいよいよ始まるという頃、カインは我が家の扉の前に立つ。そこから一歩踏み出すまでには時間が掛かった。

 カインには一つ、気がかりなことがある。

 それは凱旋の時も、埋葬の時もエヴァの姿が見当たらなかったことだ。自分が気づかなかっただけと言われればそれまでだが、見かけたならばエヴァの方から声を掛けてくれても良い気はする。

 流石に顔を合わせにくいという理由だけで、凱旋どころか埋葬にすら来ないのは考えにくい。そうなると、やはりまだ彼女の方が避けている、ということになる。

 相当傷ついたのだろうか。嫌われてしまっただろうか。もしかしたらもう二度と口を聞いてくれないかもしれない、用意した結婚指輪を受け取ってないかもしれない。そういう不安はある。

 だがカインは楽観的だった。魔物が滅びたことでもうエヴァが命懸けで戦う必要はなくなった。それに魔王討伐の報酬を手に入れれば、貧しい生活から脱却できる。

 これからは良い方向にしか向かわないのだ。

 仮にカインの一言が原因でエヴァが傷つき、二度と前の関係に戻れなくなったとしても、それでも良いと今は思える。それが命の代償と言うのならば安いものだった。

 取っ手に指を掛ける。謝罪の言葉は纏まった。後はエヴァが部屋で待ってくれていることを祈るだけだ。

 早く言いたい。あの時の言葉は全て、エヴァの守る為に言ったことだと謝りたい。エヴァに隠していたことを全て話したい。そして抱きしめて、心の底から愛していることを伝えたい。

 一抹の不安と、それを遥かに上回る希望に胸が躍る。意を決して、カインは扉を開けた。


 部屋の中は暗かった。カーテンが閉められているのか、本当に何も見えない。エヴァはいないのだろうか。肩を落としてため息を吐く。

 がっかりすると、急に眠気が襲ってきた。とりあえず今日は寝ることにした。だが明かりがなければ、ベッドまで行くことすら出来ない。持っていた松明を歩廊を照らす火に近づけた。これでとりあえず歩くのには困らない。

 もう一度、カインは部屋に入り直した。


 目を見開き、膝から崩れ落ちる。

 心臓を握り潰されたような衝撃。息が止まり、体が空気を求めるが上手く呼吸が出来ない。

 松明が最初に照らしたのは、赤だった。赤い液体が壁に飛び散り、煉瓦を汚していた。そしてそれは壁だけでなく床にも広がっている。

 その中心にいたのは、エヴァだった。

「エヴァ!」

 すぐさま彼女の元へ駆け寄る。赤い液体――血は首筋を伝って溜りを作っているようだった。手に触れると驚くほどに冷たい。よく見れば血が乾いている。完全に死んでいた。

 悪い夢だと思った。しかしここが現実の世界であることを、床と同じ冷たさの手と饐えた臭いが冷静に突き付けてくる。

 それでも実感は湧かない。混乱した頭は使い物にならず、目に映る光景を否定し続ける。カインの体はそれに反して、何が起きたのか理解しようと右往左往した。その中で見つけたのは二つ。ナイフとメモ書きだ。

 エヴァが右手に握っていたナイフは、おそらく調理場のものだ。血がべったりと付いている。そして机の上に置かれていたメモ書き。

 ――ごめんね。いつまでも愛しています。私のことは忘れてください。

 書かれていたのはたったそれだけ。所々、何かに濡れたのかインクが滲んでいる。線は震えていて、よく見なければ何が書かれているか分からない。しかし誰か書いたのかは、カインにはすぐに分かった。自殺と見て間違いないだろう。

 なぜこんなことになってしまったのか。そんなことを考える余裕がないほど、カインが受けた衝撃は大きかった。

 叫びたいのに、泣き出したいのに、今の彼にはそれすら出来ない。膝から崩れ落ちて、ただエヴァの虚ろな目を見つめることしか出来なかった。

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