第二章

 ジオニス王国から少し外れたところに位置する村。それがエヴァの出身地だ。

 カインの家が火事に遭うほんの数日前、エヴァの村は魔物に滅ぼされた。たった一人生き残ったエヴァはジオニス王国に訪れたが、右も左も分からず物乞いをしていたという。

 カインとエヴァの初めての出会いは偶然だった。両親を失った悲しみで途方に暮れて、ドワイトの忠告もそのまま当てもなく彷徨っていた時に二人は出会った。

 その時も、エヴァが路地裏で蹲っているカインを見つけてくれた。ほんの少しまかり間違っていれば二人は一生孤独のままだったかもしれない。それはこの世界でも同じであと少し走るのが遅れていたら、エヴァは奴隷にされていたか、もしくは餓死していただろう。今考えるとぞっとする。


 二人は今後のことを話し合い、ドワイトの助言通り城に住み込みで働くことを決めた。

 カインとエヴァにあてがわれたのは、元々物置だった狭い部屋だ。最近は親のいない子供が増えているようで、今のところ受け入れる場所がここしかないと兵士は言っていた。

 魔物による被害は間接的にも人々の生活を苦しめる。外国との貿易がまともに行えず、どの国も自給自足が基本になった。ジオニス王国は元々貿易によって豊かになった国で、土地柄食料の生産力は乏しい。貿易が途絶えた結果、食料の値段は高騰し、一部の貴族を除くほぼ全ての国民が飢えに苦しんでいた。

 城に来る子供たちの多くは生活に困った両親が泣く泣く手放した、というのが殆どだ。国としては弱者の救済措置を取ることで体裁を保ちつつ戦闘員を確保し、あわよくば合法的に殺せる都合の良い方法だった。

 事実上の口減らしであることに多くの国民は気づかない。あるいは気づいているかもしれないが、子供たちを預ける親は後を絶たない。

 大人になった今ならばその仕組みが如何に合理的で、冷徹なものか分かる。この場所に至るまでの経緯はカイン自身不運だと思う。もしも火事が起こらなかった世界であれば、今頃全く違う人生を歩んでいたかもしれない。

 しかしそうであれば、カインはエヴァと出会えなかっただろう。だから彼は、この境遇を不運だとは思っているが不幸だとは思わなかった。決して楽な生活ではなかったが、確かな幸せがそこにはあった。


 カイン達に与えられた仕事は荷運び、畑仕事、城内の掃除。重労働ではあったが衣食住が確保できると考えれば安いものだった。

 仕事を終えると、カインはいつも剣術を兵士に教わっていた。昼過ぎに仕事は終わり、長い時は夕暮れ時までそうしていることからいつもエヴァが先に部屋に戻って待っている。カインが帰ると二人は必ずおかえりとただいまは言い合うが、そこから何か会話が発展することはなかった。

 半ば勢い任せに城に飛び込んだものの二人は赤の他人で、距離感を探り合う状態が長く続いた。

 カインとエヴァは、互いが互いの希望だった。カインにとっては両親を失い、未来に絶望に沈んでいたところに訪れた、女神のような存在。エヴァにとっては、何もかもを失い誰一人助けてくれないところに現れた、救いの手だった。

 抱え込んだ不安を理解してくれて、孤独が辛かった時に寄り添ってくれたことがこの上なく嬉しかった。もう失いたくないと思っていた。

 だからこそ嫌われるのが怖くて、上手く喋ることが出来なかったのだ。お互いがそう考えていることを理解してからは打ち解けたのを覚えている。

 しかしそれは過去の話。今のカインはエヴァの気持ちを理解しているから、距離を縮めることは容易に出来る。

 だが敢えてカインはそうしなかった。

 この世界に来てからというもの、身の回りで起こること全てが彼の記憶そのままだった。誰に出会うのか、その人とどんな話をするのか、どのタイミングでどんな仕草をするのか。

 何の仕事をするのか、夕飯は何なのか、挙句の果てにはその日の天気に至るまで。無論全てを覚えているわけではないが、実際に何かが起きれば強烈な既視感と共にその時の感情まで思い出せる始末だ。恐らくカインが前の世界と同じ行動をすれば、未来は彼の知る通りになるのだろう。

 それは裏を返せば、前の世界と違う行動をすれば未来が大きく変わってしまうかもしれないということだ。

 未来が変わる事自体に問題はない。むしろエヴァの命を救うことが目的なのだから変わってくれなければ困る。

 しかし何がきっかけで未来が変わるかは分からない。カインとエヴァの出会いが良い例だ。あと二、三十分、あるいは数十秒辿り着くのが遅かっただけで二人は出会わなかったかもしれない。その僅かな差が原因でエヴァが餓死していたら、カインはここに来た意味を失っていたかもしれないのだ。

 表情や口調、言葉が少し違うだけでも、彼の計画が破綻する可能性はある。ほんの少しでも可能性があるならば注意しなければならない。この世界では絶対にエヴァを失いたくないからだ。

 結論、未来の改変は極力避けた方がいい。それは言い換えれば、前の世界と同じ行動を取り続けなければならないということである。

 本当はエヴァと話したい。一分一秒でも多く触れあい自分がどれだけ愛しているか、その存在がどれだけの救いだったかを彼女に伝えたい。前の世界ではそれを伝えきるよりも先にいなくなってしまった。

 だが今はその気持ちをぐっと堪えなければならない。全てを伝えるのは魔王を倒した後で、それまでは偽りの仮面に心を隠して台本通りに演じ続ける必要がある。


 起床から始まって、朝食を食べる順番から咀嚼する回数まで気を配る。仕事中は荷運びの道順やどこで休憩するのか、休憩中は何をするのかも注意した。剣術を教わる時は特に神経を使った。気を抜けば慣れた剣捌きが出てしまいそうになる。常に年相応の不慣れさを演出するのは普通に稽古するよりもよっぽどくたびれた。それらに加えて場面に応じた表情や声のトーンを作り続けるとなると、幾ら気を付けていたとしても不意にぼろが出そうになる。

 唯一眠る時だけは演技から解放されるが、だからといって心が休まるかと言われればそうでもない。目を閉じると、カインはいつもその日に起こった事を思い返す。そして前の世界と違う出来事がなかったか、不自然な行動はしなかったか顧みるのが日課だった。

 大抵の場合一つや二つはそういったことが浮かんでくる。それに気づいた時は毛布の中で、明日は自分の知らない日になっているのではないかと不安になった。どうか前と同じ明日でありますように。そう祈りながら眠りに就いては、また朝を迎えた。

 最初は楽しかった思い出を懐かしむことも出来たが、それが二、三か月もすればうんざりする。ある程度覚悟していたつもりだったが、これがあと五年以上も続くと考えると気が遠くなった。


 カインがこの世界に来てから半年が経った。

 ようやくエヴァと挨拶以外の会話が弾むようになってきた。友達が出来た事や調理場で料理を教えてもらった事を、嬉々として語る彼女の笑顔が何にも勝る薬だ。エヴァと話す時だけは自然に笑っていられる。

 それでも代り映えのしない日々にカインは嫌気が差していた。最近はやけくそな気持ちが顔や声に表れている気がしてならない。日を増す毎に不安は大きくなり、本音の部分ではもうとっくに心が挫けそうだった。

 そして、とうとうその日はやってきた。いつものように稽古を終えて部屋に戻るとエヴァがいなかったのだ。

 カインの記憶では、エヴァよりも自分が早く帰ることはほぼなかった。彼女が衛生兵になってからは、負傷兵の治療に時間が掛かって帰りが遅くなることはしばしばあったが、それ以前は一度もなかったように記憶している。

 未来が変わってしまったかもしれない。

 全身の血が逆流するようだった。居ても立ってもいられず、カインは部屋を飛び出して彼女の姿を探した。

 迷路のような城の中やその周辺、思いつく限りの場所を当たった。だがエヴァはいない。今日の彼女の仕事は荷運びだということは知っていたが、具体的にどこを通るかまでは分からなかった。

 道に迷って帰りが遅くなっているだけならまだいい。しかし万が一の事があったとしたら、例えば、人攫いに遭ったりしたら……気づけばカインの目からは涙が滲んでいた。

 城壁の上の回廊から見渡してみるが、相変わらずエヴァは見つからない。夕日はとっくに姿を隠し、あの日と同じ満月が影を作っている。

 もし本当に彼女の身に何かあってもう二度と会えなくなったとしたら、一体何の為にここまで来たのだろうか。そんな事を考えながら城壁に肘を突いて頭を抱える。あちこち走り回ったせいか思ったように足が動かせない。支えがなければ立っていることさえままならなかった。

 部屋に戻ったら案外あっさり帰りを待ってくれているかもしれない、とは思う。だがそうでなかった時の事を考えると戻る勇気が中々出なかった。負の思考は際限なく連鎖して、カインは一歩も動けなくなっていた。

 しばらくしてこつんと、小石が転がるような音がした。回廊には誰もいなかったはずだったのにおかしい。

 そう思って音のした方向を見ると、エヴァがいた。手にはバスケットを提げていた。

「カイン……?」

 どうしてこんな所に、あるいはやっと見つけたという顔でエヴァは見つめる。カインは思わず彼女の元へ駆け寄り、強く抱きしめていた。

「よかった……」

 華奢な体と体温が、目の前にいるのが間違いなく彼女であることを確かにさせてくれる。見たところ怪我等はしておらず、心の底から安心した。

 エヴァは突然のことに驚いているようだったが、カインの口から零れた言葉の意味を理解したのか戸惑いながらも優しく抱擁し彼の頭を撫でた。

「ごめんね、帰るの遅くなっちゃって。ずっと私の事を探してたんだよね」

「なんでそれを?」

「部屋に戻ったらカインがいなかったから、色んな人にどこにいるか聞いて回ったの。みんな口を揃えて、凄い不安そうな顔だったって言ってたよ」

 どうやら二人は入れ違いになってお互いを探し回っていたようだ。急に張りつめていた気持ちが緩んで不意に笑みが零れる。

「余計な心配だったな」

「お互いね」

 二人の笑い声が静かに響いた。こんなに心から笑い合えたのは久々だ。

「それで、どうして遅れたんだ? 何かあったのか?」

「そうだ! 実は――」

 エヴァは嬉々とした表情でバスケットから袋を取り出した。彼女が広げた袋の中をカインは覗き込んだ。見たところ食べ物のようで、初めて嗅ぐ上品で美味しそうな匂いに思わず生唾を呑んだ。

「タルトっていう外国のお菓子なんだって。最近カインが元気なさそうだったから、友達に相談してみたら教えてくれたんだ。その子と調理員さんと作って食べてみたんだけど、とっても美味しかったの!」

「これ、食べていいのか?」

「もちろん!」

 恐る恐る口に放って咀嚼する。その味は今までのどんな食材とも違い、とても言葉では表しきれなかった。

「美味い、美味いよ!」

 前の世界でもこんなに美味い菓子は食べたことがない。味に感動したのは初めてだ。その感動をどう伝えればいいか分からず、カインは何度も同じ言葉を繰り返した。

「……もう一個食べてもいい?」

「あはは。全部食べてもいいんだよ」


 カインとエヴァはタルトを食べ終わっても部屋には戻らなかった。一年掛けて埋めるはずの距離はすっかり縮まり、二人で月を見ながら話をしていた。

「綺麗……」

 エヴァは完全に月に魅入られていた。この回廊からは雲一つない夜空に浮かぶ満月を真正面に見られる。照り付けるような月光は二人の影をより色濃くさせ、その様はさながら夜の太陽だった。

「初めて会った日もこんな月だったな」

「そうだったっけ」

 エヴァと初めて会った日の事は忘れられない。光さえ届かないような路地裏に現れた彼女の姿は背後の月明かりと相まって、まさしく暗闇に差す一筋の光だった。

 一人ぼっちの心細さに手を差し伸べ、自分を必要としてくれる存在に出会えた事が今でもカインの心を支えている。この瞬間彼が彼らしくいられる事は全てエヴァのおかげと言っても過言ではなかった。

 どれだけ言葉を尽くしたとしても、彼が伝えたい感謝の一割でさえ伝えられそうにない。あの日のことは死ぬまで、いや死んだとしても忘れない。カインは本気でそう思っていた。

「こんなこと言ったら怒るかもしれないけどさ」

 エヴァは呟くように言った。

「カインが心配してくれたの、凄く嬉しかった。何だかお父さんみたいだなって思った」

「そう……かな」

「でも泣いてる顔は赤ちゃんみたいで可愛かったな」

 笑うしかなかった。醜態を晒した事実は否定しようがない。

「じゃあ私がカインのお母さんになってあげる。だからカインは、私のお父さんになってね」

 二人は部屋に戻った。その日は久しぶりによく眠れた気がした。


 冷静に考えれば迂闊だったと言わざるを得ない。カインは不注意から意図せず未来を変えてしまったのだ。

 エヴァが無事に帰ってきたことは喜ばしいことだが、これから彼の予測できない出来事が起こる可能性が生まれた。それは大きな不安要素といえる。

 ほんの少しの怠慢が取り返しのつかない事態になるかもしれないと、これをきっかけに強く思った。

 しかし今日の出来事がなかったとしたら遅かれ早かれ心が折れていただろう。励ましてくれたエヴァには感謝してもしきれなかった。絶対に諦めない。今のカインは自信を持ってそう言うことが出来た。


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