魔女のカクテル

尾八原ジュージ

魔女のカクテル

 六月のある日、地下鉄の駅を出て本屋街を歩いていたときのことである。

 梅雨時だというのに、数日間晴天が続いていた。おかげでその日は土埃香るカラッとした空気が満ちていたのだが、そこに突然、狂ったような土砂降りが襲いかかってきた。

 こんな見事な五月晴れの日に雨など降らないだろうと思っていた私は、迂闊にも傘を持っていなかった。五月雨というより、まるでスコールのような雨だ。慌てて辺りを見回すと、大型書店と楽器屋の間に、テトリスの長い棒みたいに収まった細長い建物があるのに気づいた。「黒猫」という看板を掲げており、どうやら喫茶店のようだ。

 ここなら座るところもあるだろう。雨宿りの場所を見つけた私は、さっそくそこに飛び込んだ。カランカランというベルの音と、いらっしゃいませ、という朗らかな女性の声が続いた。

 それから三時間が経過した。

 未だに外では雨が降り続いていた。明日は日曜だが休日出勤の予定だから、そろそろ家に帰ったほうがいい。たとえば店員に傘を借りるなどして……頭ではそう考えながらも、私はその店から出ることができずにいた。

 照明を落とした薄暗い店内、空調の風を受けて時折ゆらゆらゆれるアンティーク調のランプ、ガラス越しに見える雨でにじんだ街の灯、どっしりとした革張りの深緑色のソファ、音量を絞ったジャズ、コーヒーのよい香り。すべてが私の好みに叶った、奇跡のような店だったのだ。もう少しあちこち歩き回りたかったが、こんな店なら籠もるのも悪くない。

 この本屋街には何度も来たことがあるのに、なぜ私は今までこの店に気づかなかったのだろう。まるで前世からこの店の常連だったような気がしてくるほど、私は深く寛いでいた。おまけに私の手元には、数軒の本屋を巡って購入した本が何冊もある。腰を落ち着けるための条件は十分だった。

 私はコーヒーを飲みながら本を読み、ケーキセットを頼み、またコーヒーをおかわりし、トイレを借りて、またケーキセットをオーダーし、本を読んだ。そうしているうちに「大きなのっぽの古時計」に出てくるような柱時計がボーンと鳴った。七時半だ。

「もうすっかり夜ですね」

 本から顔を上げた私に、従業員の女性が話しかけてきた。黒いシャツに細身のスラックスがよく似合う。ひとつにまとめた長い髪が動くたびにぴょんぴょんと跳ねて、動物の尻尾を思わせた。溌剌とした雰囲気の、まだ若い美人だ。

「ああ、すみません。長居してしまって」

「いえいえ、こちらこそたくさんオーダーをいただきまして、ありがとうございます」

 薄暗い店にはちょっとそぐわないほど明るいが、とても心地よい声だ。私は彼女の返事に安心して、「食事のメニューはありますか?」と尋ねた。

「日替わりで一種類だけなんですけど、それでよければ」

 特製のチーズカレーだというので、私はそれをオーダーした。この店のコーヒーもケーキも美味かった。きっとカレーも美味いに決まっている、という確信があった。

 チーズカレーは大きめのグラタン皿のような容器に盛りつけられていた。思った以上に素晴らしい逸品だった。食後にもう一度コーヒーを頼むと、店員は「もう四杯も飲まれてますよ」と微笑んだ。

「ははは、そんなになりますか」

「ええ。あまり飲まれると眠れなくなりませんか? カフェインレスのお茶やジュースもありますよ。あと、一応アルコールも」

 店員は笑って「アイリッシュコーヒーですけどね」と言った。なるほど、半ばコーヒーみたいなものだ。

「いいですね、アルコールかぁ」

「お酒、お好きですか?」

「ははは、私のガソリンみたいなもので」

「あら、そんなにお好きならあれがあるわよ」

 突然知らない声が割って入ったので、私は思わずどきりとした。

 ドアの前に、黒い春物のトレンチコートを着た女性が立っていた。いつの間に来たのだろう? ベルは鳴らなかったはずだが……と、そのとき女性店員が「あ、オーナー」と呼びかけた。

「ご相席してもよくって?」

「あ、ええ。どうぞ」

 ほかにいくらでも空席があるのに相席とはおかしな話だ。しかし彼女の言葉には、決して不快ではないが妙な圧力があって、私はつい承諾してしまったのだった。彼女はコートを脱いで、私の向かいのソファにするりと腰を下ろした。

 不思議な女性だった。

 私は探偵事務所に勤めている。それなりに色々な人間を見てきたつもりだが、彼女が果たして何歳くらいなのか、家庭があるのか、どんな性格なのか、さっぱり推し量ることができずにいた。若いのか、私より年配なのか、人種すら定かでない。

 オーナーだという女性は、紬のような生地の黒いワンピースを着て、灰色の長い髪を右肩に流していた。喉元に金鎖のペンダントをつけており、チャームには見たことのない宝石が嵌っていた。

「今日はこの近くで集会があったのよ」

「ああ、それでこんな天気に……」

 店員はなぜか心得たような顔でうなずいた。

「でもいいんですか? オーナー。あれってあの……」

「たまにはいいでしょ。ちょっぴりだけ炭酸水で割ってお出しすれば大丈夫よ。確かあたしのカクテルグラスがあったでしょう」

「まぁ……オーナーがいいって言うならいいですけど」

 少しして店員が運んできたのは、カクテルグラスに入った黄金色の酒だった。炭酸がシュワシュワと泡立ち、グラスの中でキラキラと夢のように光っている。

「これは……初めて見たな。なんていうお酒ですか?」

「そうねぇ。こんな見た目だから……魔女のカクテルとでも呼ぼうかしら」

 オーナーは長い首を傾げて微笑んだ。「他所ではなかなか飲めないお酒よ。さ、どうぞ」

「はぁ、それじゃあ……」

 私はグラスを手に取り、唇につけた。香草のような香りと共に、甘い液体が口の中に流れ込んでくる。今まで一度も味わったことのない不思議な酒だった。何だか頭の中が黄金色の光で満たされていくような……急に脳がグラッときて、私は一瞬目を閉じた。

 再び目を開くと、目の前にオーナーの姿はなかった。カウンターの中にいたはずの店員も見当たらない。そして、店内が妙に明るかった。

 私は窓の方を見て、思わず「うわ」と声を上げた。

 空が明るかった。

 今日の豪雨とは似ても似つかない、しとしとと降る五月雨に光る太陽が、薄い雲の向こうから優しく辺りを照らしていた。濡れた通りを、右手の方から誰かが歩いてくるのが見える。なぜかその人影が妙に気になった私は、立ち上がって窓ガラスに貼り付き、そしてもう一度声を上げた。

 クリーム色のワンピースを着た女性が、傘もささずに早足でやってくる。それはまだ私が学生だった頃、熱烈に恋をした女性だった。もっとも「恋」のような爽やかな語感の言葉よりは、「懸想」と古めかしく言ったほうが似合うかもしれない。その女性は人妻で、どうやっても届かない相手で、私はただじめじめとしたやり場のない想いを抱えていただけだった。彼女は窓の外を通り過ぎるとき、ちらりと私を見た。

「どなたか通ったかしら」

 その声にはっとして振り返ると、オーナーが元のようにソファに座っていた。一瞬のうちに窓の外が暗くなり、やや弱まった雨足がガラスを叩いていた。カウンターの向こうでは、店員が洗い物をしている。

「はぁ……あの……」

「世の中には不思議なことがあるってことよ、探偵さん」

 オーナーは形のいい唇を動かし、にっこりと微笑んだ。「ほら、そろそろ雨が上がるわ」

 彼女の言った通りだった。あれほど激しく降っていた雨が、いつの間にか小雨になっている。これなら傘がなくても、なんとか駅まで辿り着けそうだ。明日が出勤日だったことを、私は改めて思い出した。

「すみません、そろそろ閉店時間なんです」

 店員が伝票を持って近づいてきた。

「カクテルはあたしの奢りにしておいて」

 オーナーが言った。

 私は精算を済ませて店を出た。振り返ると、店員が窓にかかった厚いカーテンを閉めるところだった。

 まるで夢を見ていたような気分だった。あのカクテルは一体何だったのだろう? 魔女のカクテルと言っていたが……。

 まだ懐かしい女性の顔が脳裏に焼き付いている。ふわふわとした足取りで駅に向かう私の覚束ない頭では、あの店のオーナーと店員が、まるで本物の魔女と使い魔の黒猫だったように思われてきてしまう。

(まさか、そんなことがあるわけないよなぁ。きっと一瞬眠って夢でも見たんだろう。自分で思っているより疲れているんだな)

 地下鉄に揺られながら私はふと、オーナーが「探偵さん」と私の職業を言い当てたことを思い出した。背筋がゾクッとした。


 それからも私は、何度かあの本屋街に通った。

 しかし「黒猫」があったはずの大型書店と楽器屋の間には、何もない細い路地があるばかりで、あの居心地のいい空間には二度とたどり着くことができなかった。

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