BLUE HEARTS
さらりと流れる黒髪は、指先に柔らかく口唇に硬い。輝く星のような黒い瞳は、いつもオレの姿を映して微笑んでいた。
最後の夜の事は忘れない。
オレの腕の中で、声を殺して泣いていた。
最後に触れた唇の感触が今でもーー残っている。
「どうして急に
テーブルを挟んで、向かいに座る
「今更……って思ってるんだろ?」
「……もちろん思ってるよ。話しただろ?空海は今幸せなんだ。それを壊すつもりか?」
海斗の口調は鋭く、痛い。けれども、それをオレは甘んじて受け止めなければならない。これから空海が受けるだろう衝撃は、きっとこんなものじゃないだろうから。
「壊すつもりはないよ。ただ……会いたいだけだよ」
会いたいーー。
いつからそう思っていたのかは、今となっては分からない。ただ、空海に会いたかった。
花街の女の移動は早い。長い者でも二年、短い者は一ヶ月足らずで街から消える。そんな中で、もう十年近くもトップを保っている人がいる。
柔らかく、緩いウェーブのかかった薄茶の髪、伏し目がちな憂いを帯びた明るい茶色の瞳。透ける様に白い肌、薔薇色の頬、珊瑚色の口唇。柔らかな物腰と、優しい声音。外見とは裏腹な強靭な意志。
オレは、そんな舞姫に惹かれた。その美しさを、強さを、聡明さを……舞姫の全てを愛した。
そして、舞姫もオレを愛してくれていた。
……でも
報われない想い。引き裂かれた心。
そんな時に出会った。流れる黒髪と、星のような瞳が酷く印象的な少女。クルクルと良く変わる表情と無邪気な笑顔。鈴の音のような笑い声。
空海ーー
彼女にどれだけ救われたか分からない。
細い…あの腕に、何度抱かれただろうか。何度、あの微笑に癒されただろうか。
乾ききった心を、潤してくれたのも空海だった。淋しい想いを消す様に、優しい歌声を聞かせてくれたのも空海だった。そしてーー何も言わずに、オレに抱かれてくれた。
「ーー愛してた……」
「知ってるよ」
けれど、その想いは舞姫への想いとは少し違っていて。
「……愛せなかったんだ」
舞姫と同じように、舞姫を愛した以上に、空海を愛する事が出来なかった。
笑顔が綺麗だった。見つめる瞳にオレが映っていて、笑っていた。
腕の中で泣く姿を美しいと思った。
だけどオレは……空海の向こうに、いつも舞姫を探してしまっていた。空海を通して、舞姫を見てしまっていた。
『あたしは、舞姫さんじゃないよ……』
オレの腕の中で空海は言った。
頬を涙で濡らし、声を震わせながら強い瞳で言った。
それから1ヶ月程経ったある朝、空海はオレの前から姿を消した。
「それも知ってる。……キミ意外と分かりやすいから」
海斗の顔に浮かぶ弱い苦笑。
「空海も…知ってたよ」
滑らかな頬を伝う真珠のような涙。
いつからか、笑顔よりも泣き顔を見る事が多くなった。何かを伝えるように、微笑んだ頬に流れる涙が、酷く綺麗で胸を突かれた。
「あの朝の事は、今でも覚えてる」
呟きは溜め息とともに漏れる。
「温もりが消えているのに気付いて、目が覚めた」
いつも、腕の中にあるはずの温もりがその日は無かった。その瞬間に気付いた。
いつかこんな日が来るとは思っていたけれど、こんなに早く、こんなに突然に…来るとは思わなかった。
喪失感ーーー
舞姫を失った時には感じなかった大きな想い。
「失くして初めて知ったよ」
空海が自分にとって、どれ程大切な存在だったのか。空海が、どれだけ自分を愛していてくれていたのか。
「自分が空海をーー愛していた事を」
同時に、空海を愛せない事を。
「失くすまで気付かないなんて
海斗に言われ、浮かぶのは苦笑い。
本当に愚かだと思う。大切な存在に気付くことが出来なかったなんて。自分自身の想いに、気付いていなかったなんて。
あれからいくつもの季節が過ぎた。その度に、空海と過ごした日々がリアルな夢の様に思い出される。
春の夜の桜
夏の蛍の舞う庭
秋の月夜
冬の雪の明け方
隣りに立つ人は違うのに、思い出すのは空海だった。
「舞姫は元気?」
海斗は柔らかく微笑む。
「相変わらずだよ」
舞姫は、変わらずに美しく、変わらずに桜華街のトップで…オレの想いも変わらない。舞姫を愛し続けている。
そして、舞姫はオレの隣に居る。
「……一緒にならないのか?」
「まだ無理なんだ」
「……まだ?」
不思議そうな表情の海斗に、オレは笑みを返す。
「約束だから……」
「約束?」
ただの、他愛ない口約束。けれども、オレの中では大きな意味を持つモノで、今のオレを創るモノ。あの頃のオレの想いが偽りでなく、本物である事を示すモノ。
「……約束は……守りたいから……」
「約束してくれますか?」
「約束?」
白いシーツに真っ直ぐな黒髪が広がっていて、そのコントラストを綺麗だと思った。
「そう、約束」
「いいよ」
どんな約束かなんて、考えもせずに直ぐに答える。空海の瞳が、あまりにも美しかったから。
「もし……十年後……お互いに結婚してなかったら、結婚しましょう」
「あぁ……いいよ。約束する」
淡く頬を染め、微笑む空海は幼い少女の様で、愛しさが溢れてオレは強く抱き締めた。
君にとっては、ただの口約束だったのかもしれない。気紛れで言った、他愛のない言葉だったのかもしれない。
けれど、答えた言葉は真実で、もしも、君が今でも望んでくれるなら、その願いを叶えたいと思うーー
蒼の世界 七海月紀 @foohsen
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