蒼の時代
いつのことだろう。
どうして貴方なんだろう。こんなにも強く願ってしまう。離れてしまった今でも強くーー願う。
貴方の声を聞きたい。貴方を見ていたい。貴方に触れていたい。……貴方の側に居たい。
どんなに離れていても、貴方のことだけを想っています。
決して口には出さないけど……それでも、あたしは誰よりも貴方を愛しています……。
始めて逢った時、貴方の隣にはもうあの女性が居た。
「
耳の奥に心地よく響く低音。その声で呼ばれる度に、あたしは何だかくすぐったい気分になって、何時までも聞いていたくなる。
「……?居ないのか?」
声とともに障子が開けられ、声の主が姿を現す。
「……居るじゃん」
ぴょんぴょんと
「居ますよ?」
対するあたしは、行く宛ても無くさまよっていた所を央さんに拾われた
「居るなら返事くらいしろよな」
そう言いながら央さんは、柱に寄り掛かって本を読んでいたあたしの隣に腰を下ろす。
「すみません。本読んでたんで」
あたしは謝りながら本に栞を挟んで閉じる。
「…で?どうしたんですか?」
あたしは目線を央さんに向ける。
「ん?ん――……お前今夜非番な♪」
「………はい?」
「
「…………はい」
……はぁ
心の中であたしは大きく息を吐く。
こういう時の央さんは、あたしが何を言ったって聞いてはくれない。だから、逆らわずに頷くしかあたしには出来ないのだ。
「椿屋ですか?」
「そう椿屋」
椿屋とは、蒼ゐ屋のある春宮と対を成す高級遊郭「桜華街
「……今夜は
あたしは息を吐いて立ちあがると、着物の裾を直して縁側へと向かう。
あたしの部屋の縁側は、店の中庭に面していて眺めも店のどの部屋よりいい。そして、この縁側からの眺めはあたしのお気に入りだ。四季の移り変わりを感じることの出来る蒼ゐ屋自慢の中庭は、手入れが行き届いていて凄く綺麗だ。
「椿屋の親父様と…」
央さんはげんなりとした様子で、大きく息を吐く。
そんな央さんが、何だか可愛くてあたしはくすくすと笑いながら、央さんの前にしゃがみ込む。
「何時からですか?」
央さんは表情を明るくして、笑顔を浮かべる。
「六時から♪」
「六時からですね?」
あたしもつられて微笑み、そのまま視線を時計へと移す。
………………
「って!!もう五時回ってるじゃないですか!!準備に何分掛かるか分かってますよね?」
あたしは、慌てて央さんの手を引いて立ちあがり、そのまま部屋から追い出す。
「ははっ♪悪いな」
「悪いと思うなら、もう三十分早く言いに来てください」
あたしの精一杯の悪意を込めた笑顔は、央さんの無邪気な笑顔に撥ね返される。
「ん。次は気を付けるよ」
……央さんの"次"程当てにならないものは無いんだよなぁ…。
「はいはい……お願いします~~。……え~と、四十五分にはできますから」
「おぅ。綺麗にして来いよ」
「分かってます」
笑顔の央さんの前で障子を閉めると、あたしは大急ぎで準備にとりかかる。
花街の他のお姐さん達は自分で着付けたりしないらしいけど、あたしは違う。だって、自分で脱ぐのに一人じゃ着れないって、癪だし。他人に任せれば楽だけど、それは何だか嫌だから。だからあたしは、自分の手で全ての準備を行う。
拾ってもらって最初にお座敷に上がる時にそう言ったら、央さんは可笑しそうに笑いながら「良いんじゃない?」と、言ってくれた。以来、あたしは央さんのお言葉に甘えて全ての準備を一人でさせてもらっている。
お座敷の準備。
それは、あたしにとっての大切な儀式だから。大切な……大切な……。
腰まで長く伸ばした髪を丁寧に櫛で削り、手早く結い上げ、簪を刺す。
そして、央さんに言われたように、あたしが持っている中でも一番綺麗な着物を取り出す。黒にも見える程に深い青地に銀糸で蝶の刺繍が施された着物はお気に入りの一枚だ。
「………」
丁寧に着物を着付けたあたしは鏡の前に座ると、目尻と口唇に朱色の紅をさす。
鏡に映る自分を、他人の様に感じるようになったのは何時からだろうか。
あたしだけど…あたしじゃない…あたし………
明け方。
いくら花街とは言え、この時間に街道を歩く人の姿は無い。寧ろ、花街だから無いのかもしれない。
人気の無い道で、響くのはあたしのぽっくりの音と央さんの足音だけ。
ゆっくりした足取りで歩く央さんの半歩後ろを歩くのが、何時の間にかついたあたしの癖だった。
「流石に夜は少し冷えるな…」
緩い風が、央さんの羽織っている着物の裾とあたしの着物の裾を揺らす。
青地に銀色の蝶が舞い、黒地に金色の蝶が舞う。まるで、二人して揃えたかのような着物にも、椿屋の親父様は酷くご機嫌な様子だった。
「そうですねぇ……」
あたしは、空を見上げながら緩々と答える。
夜空に浮かぶ月は、赤味がかった満月であたしは目を奪われる。そして、こんなに綺麗な夜に央さんと一緒に居られることが嬉しくて、切なくて、苦しい……
軽く指先が触れ合うと、すぐにそれは軽く握りしめられる。
あたしより、少しだけ高い体温。
「お前…手、冷たいな」
驚いた様に央さんは言い、あたしは苦笑を返す。
「冷え性なんですよ」
「へぇ…」
きゅっと握られた手は、次第に馴染んで冷たさを感じなくなる。その温かさは酷く心地よくて、放したくなくなる。
………人の気も知らないで…
あたしは息を吐いて、けれども、少しだけ嬉しい気分で央さんの手を握り返す。
どうせあたしは、何時まで経ってもこの人には敵わないんだ。この人だけには………
『
それが、央さんの大切な人の名前。
「……凄いよなぁ……舞姫さん」
街道を歩く彼女を店の外に見つけ、あたしはポツリと呟く。
「お前だって似たようなモンだろ?」
蒼ゐ屋の番頭をやっている
「……そうかな?」
「そうだよ」
あっさりと言ってのける蛍の言い方は、決して嫌味には聞こえない。そんな蛍の言い方があたしは好きだ。着かず離れず、自分はこのままで良いんだと思わせてくれる。
蛍もあたしと同じように、数年前にこの街にやってきて央さんに拾ってもらったらしい。同じような境遇の
いつも穏やかな笑顔を浮かべている蛍だけど、最近は少しその笑顔に影が見え隠れしている……ような気がする。あたしの気の所為ならいいんだけど…
「デビューして、三ヶ月で『
「そんなに凄いかな?」
「凄いよ。舞姫姐さんでさえ、半年かかったんだから」
……だったら、ちょっと凄いのかもしれない。
『桜』というのは、桜華街春宮で最上位の遊女に付けられる花名で、秋宮における『桔梗』と同じ立場に当たる。
あたしは、それを三ヶ月でゲットした訳だけれども、そうそう付けてもらえる訳じゃなく、新人がいきなり『桜』を貰うことは、春宮を揺るがす一大事だったとのこと。当の本人であるあたしは、当時まだまだ桜華街に関して全くの無知だったからそんなことも知らなかったんだけど。因みに、『桔梗』は舞姫さんが最速らしい。
「央も、こんなことやってのけるのは、空海くらいだって言ってるぞ?」
「…
「煽ててません」
あたしの言葉に、蛍は苦笑を深くする。
「知ってるか?空海が来てから、ウチの売上倍以上になってるんだぞ?それに…」
「それに?」
「……それに、空海が来てから央は変わった。前は椿屋のオーナーの所に行くことなんて殆ど無かったから」
そう言う蛍の笑顔は、何処か淋しい。見ているこっちの胸が痛くなるような切ない笑顔。
……蛍が……何を思っているのか、あたしには分からない。でも、いつも笑顔の蛍には似つかわしくない表情だと思う。
「あの人は……空海を傷付けるよ……」
少しの間のあとの、蛍の、小さな呟き。
……
あたしは微笑む。
「知ってる」
それでも、あたしはあの人の側に居たい。
「……あの人は…空海を見てないよ」
………
あたしの、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。苦しくて苦しくて切なくて、泣きたくなる。でも…
「……知ってる」
そんなこと…央さんが、あたしを見ていないことなんて始めから分かってる。央さんが見ているのは、舞姫さんだけだってことも、あたしを通して舞姫さんを見ていることも。……いつでも、央さんの心の中には舞姫さんが居ることも。
…それでも、あたしは央さんを失いたくない。あたしに…もう一度人として生きる勇気をくれた人。かけがえの無いモノを教えてくれた人。初めて、心の底から愛した人…
もう分かっているんだ。貴方に届かないことが。
でも、そのことを信じたくなくて、信じられなくて、信じることが出来なくて……
ごめんね。いつまでもこんな自分で。
ごめんね。それでも、貴方を愛してる……
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