蒼の世界
七海月紀
蒼の季節
いつのことだろう。貴方のことを大切だと思い始めたのは。失いたくないと思ってしまったのは。
どうして貴方なんだろう。こんなにも強く願ってしまう。離れてしまった今でも強くーー願う。
貴方の声を聞きたい。貴方を見ていたい。貴方に触れていたい。……貴方の側に居たい。
枕元でけたたましく鳴り響く音に、あたしは眉をひそめる。
誰だよこんな時間に……
気持ち良く浅い眠りの海を漂っているところを邪魔たあたしは頗る機嫌が悪い。
せっかく早く寝たのに……
珍しく夜の予定が何もなかった久しぶりの休日。早々に布団に入り、心地よい時間を過ごしていたのに……幸せな時間を途切れさせた罪は重い。
不機嫌な表情のまま体を起こしてあたしは枕元の携帯電話の通話ボタンを押した。時刻はまもなく短い針がテッペンを回ろうかという頃だった。
こんな時間に電話してくるのはあの人くらいしか居ないか…
「……もしもし」
『ハロー?』
聞こえた声は耳に気持ちの良い低音で、いつまでも聞いていたいと思ってしまう。
「……ハロー?」
そんな自分に軽く自己嫌悪を覚えながらあたしは息を吐いた。
『もしかして寝てた?』
「もしかしなくても寝てました」
『悪い悪い』
全くもって悪びれた様子が覗えない声でそう言ってのけるのは、あたしがお世話になっている『蒼ゐ
寝起きだからってことにしておこう…
「こんな夜中にどうしたんですか?」
とは言っても、常ならまだまだ客の相手をしている時刻だ。それを考えると夜中と言うと何となく語弊があるような気がしてしまう。
『ん?お前今日非番だよな?』
「……そうですけど」
電話が掛かってきた時点で、既に予想は出来ていた展開に、あたしはちょっとげんなりした気分になる。
……はぁ
「イイですよ……来ても」
あたしは小さく息を吐きながら言う。
外でよそのご主人方との会合があった夜、央さんは良く……というか、十中八九あたしの部屋へとやってくる。店の最上階にある自室まで上がるのが面倒だから…というのが彼の建前だ。
『ははっ♪さすが。分かってるな』
あたしには、電話の向こうで笑う央さんの顔がはっきりと想像できる。
楽しく酒を飲んで、イイ気分になっている時の央さんの顔なんて、飽きるくらいにみてるから…。
『じゃぁ、今から行くから』
「分かりました。今どこですか?」
『秋の入り口』
「……大丈夫ですか?ちゃんと来れます?」
「迎えに行きましょうか?」
『来てくれるのか?』
「……行きますから……ソコ動かないで下さいね?」
『ん。分かった』
「じゃぁ、すぐ行きます」
あたしはそう言って電話を切ると、財布と携帯電話を入れた小さな巾着を持ち、薄い羽織を羽織って外へと出る。
外はまだまだ仄かな明かりもあり、出歩くのに支障は無い。…とは言うものの、非番とはいえ薄物の着物に羽織という格好をそうそう他人に見られるわけにもいかず、あたしは人のほとんど通らない薄暗い裏道を小走りに抜けて行く。
秋宮の入り口に当たる大きな朱色の鳥居までは、歩いて十五分ほど。酔っ払った央さんが一人で十五分も同じ場所に居るとは思えなくてあたしは足を速めた。
やがて鳥居が見え、その側に人影を見つけ歩調を緩める。
……良かった……ちゃんと居た
息を整えながらあたしが鳥居に近付くと…
「遅い」
文句を言う央さんにあたしの肩がっくりと落ちた。
「これでも急いできたんですから文句言わないで下さいよ……」
「まぁ……そうだな。十分で来れるのは速いな」
にっと笑んでみせ、央さんはあたしの反対側…鳥居の向こうに振り返る。
「悪いな、
……一瞬、心が凍った。
「構わないわよ。あたしも抜けたかったし」
それまで鳥居と央さんの影に隠れていて、あたしの目に入ってなかった小柄な女性。
淡い栗色の緩い巻き毛、瞳は何処か物憂げで、他の誰にも無い艶っぽさを持つ女性。
「そうか?」
「そうよ。お迎えも来たことだし、あたしは戻るわね」
バイバイと、小さく手を振って、舞姫さんは鳥居の向こうへと消えて行く。その様子を見つめる央さんの瞳は酷く優しくて…。
それは決してあたしには向けられることの無い眼差し…
「さて……オレたちも帰るか」
その姿が見えなくなるまで見送り、振り返ると央さんは微笑んだ。今度はあたしの為に。
さりげなく差し出される手。
繋いだ手は、温かくて何だか泣きたい気分になってくる。
「……舞姫さんの所に泊めてもらえば良かったのに…」
「舞姫はまだ仕事。それに……」
………
「それに?」
あたしはこの後に続く言葉を知っている。……知っていて、それでも言わせる辺り自分の神経腐ってるな……と思う。
「それに、別れた女の部屋には泊まれない」
「そっか…」
「そうだよ」
たとえ別れても……それでも央さんは舞姫さんを愛している。それを知っているあたしは、どうすればいいのだろう…。
舞姫さんを愛している央さんを、あたしは……
来た時と同じ道を、ゆっくりと歩きながら他愛もない話をする。
……今……今、この瞬間だけは二人だから……
この手の温もりを、きっとあの女性も知っている。でも……今この時の温もりを知っているのはあたしだけだから…
冷たい夜の風が、あたしと央さんの間を通りぬける。
「寒くないか?」
央さんがあたしの肩を抱く。
「大丈夫です。央さんこそ寒くないですか?」
「ちょっと寒い……」
あたしは声を出さずに笑い、央さんの手をきゅっと握る。
「早く帰りましょう」
「そうだな……」
他の人から見たら、自分たちはどんな風に見えるのだろう……
あたしの部屋は、蒼ゐ屋の入り口から見ると一階の一番奥にある。そこは裏口に一番近く、こういう時には便利だな……と思う。
「~っ……眠い……」
部屋に入るなりそう言って布団に潜り込む央さんは、小さな子どもの様であたしはくすっと小さく笑う。
「央さんもう少しそっちに寄って下さい」
「ん~……」
央さんは布団の中から手を伸ばし、あたしの腕を掴むと、ぐいっと引き寄せる。
「!!」
何時もの事とはいえ、驚くのは仕方無い。
「……はぁ」
息を吐き布団に入ると待ち構えていた様に、央さんはあたしを抱きしめた。
……あたしは抱き枕の代わりなのかなぁ……?
「おやすみ……」
央さんは囁いて、あたしの額にキスをするとあっという間に眠りに落ちてしまう。
「………おやすみなさい」
あたしもそっと央さんにキスをして目を閉じる。
央さんの温もりを感じながら眠りにつくのは、酷く心地よくて……胸に抱かれたままあたしは泣きたい気分になってくる。
……央さんが何考えてるのか、分からないよ…
目を閉じると聞こえる、鼓動。
感じる、体温。
抱きしめられた時の、力強さ。
……何考えてるんですか……?本当に…
央さんの心が…見えない…
風が吹く。
蒼い風が。
それは、運命を動かす風。
風が吹いて…
季節が…変わる…
どんなに離れていても、貴方のことだけを想っています。
決して口には出さないけど………でも、あたしは、誰よりも貴方を愛しています。
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