第3話 史実と真実
「史実と真実は異なる」
学部一年生の時に旧約聖書の授業で聞いた言葉だ。聖書には現実にはあり得ないような出来事が数知れず記されている。創世記には、神の言葉によって世界が、そして人間が作られたことが書かれている。出エジプト記には、モーセが神から召されエジプトから奴隷解放のためイスラエルへとユダヤ人たちを導く際、海が瞬く間に分かれ、そこにできた道を渡ったとの記録がある。新約聖書にはイエス・キリストが処女マリアの内に宿ったことをはじめ、イエスが湖の上を歩いて渡ったことや、死人を生き返らせたことなどが記されている。聖書とはつまり、奇跡の記録なのである。これをどう理解するかについては、キリスト教徒の中でも意見が一致されていない。
「史実と真実は異なる」という言葉の真意はこうだ。聖書に書かれた奇跡は歴史上の事実ではなかったかもしれない、しかし、その出来事を通して伝えたいメッセージがあり、そこには真実がある。
「史実と真実は異なる」という言葉はしばしば、キリスト教徒ではない友人の言葉で再び呼び覚まされた。学内で神父の教員が開いている聖書講座で出会った後輩にこのように問いかけられた。
「信者の人たちは聖書の中の奇跡をどう理解しているのですか」
――どう理解しているのだろう――私は聖書の奇跡を疑ったことがなかった。問いかけられて初めて、史実と真実が異なるというのは正しい事なのだろうかという疑問が浮かんだ。確かに言われてみれば聖書には現実世界に起こりそうもない事ばかりが書かれている。疑っていないという事は、つまり信じているということなのだろうか。私は何を信じているのだろうか。考えるほどにわからなくなり、答えに窮してしまった。
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兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
コリント人への手紙第一 一五章一―五節
キリストは、福音をもたらした。福音とは新約聖書の原語ギリシャ語で、「良い知らせ」を意味する。
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「はじめに神が天と地を創造された」創世記一章一節。これが、聖書の初めの言葉である。神は世界の初めに世のすべてを創造した。人は全てが供えられた地に創造された。神は、その大地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。すべてが満ち足りた場所に人は創造されたのである。
神である主は東の方にエデンの園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。そこは罪と死が存在しない神の光に満ちた場所だった。神は人が一人でいるのは良くないと、その助け手となる存在を創造した。このようにして男と女が創造された。エデンの園の木から、人はどの木からも思いのままに食べて良いとされていた。神が彼らの食べるべきものをすべて養っていたのである。神は彼らを愛するがゆえに、見返りを求めることなくいっさいの物を与えた。エデンの園において、人は神との親密な関わりを持っていた。人は一日中神との交わりを持つことができた。実の父として神を慕うことができ、妨げるものは何一つなかったのである。
神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
創世記 二章九節
神は園の中央に二本の木を置かれた。神はある命令を人に与えた。
神である主は人に命じられた。あなたは園のどの木からでも思いのままに食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ。
創世記 二章一七節
園の二本の木は、人に自由意志が与えられ、選択の自由が与えられていることを示した。いのちの木を選ぶか、善悪の知識の木を選ぶかである。
ある時人の中に罪が入った。旧約聖書の創世記三章にこのことが記されている。蛇の姿をしたサタンが現れ、善悪の知識の木の実について、人に次のような言葉を語るのである。
「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」
創世記 三章四―五節
サタンは二つの偽りを語ったのである。一つは神に対する疑いである。神は人を愛し抜いていた。ゆえに、人に対する命令は神の愛をあらわすものだった。
しかし、サタンは神の愛を人に疑わせた。神は人を自分のようにしたくないがゆえに、彼らを善悪の知識の木から遠ざけたいのだと理解させた。神は限りなく良い方であるという事に対し、疑いを持たせたのである。
もう一つの偽りは、神を信頼すべきではない、神を信じるべきでないという教えだった。
人は善悪の知識を得るというその木の実を食べた。人は神の言葉を信じず、サタンの偽りを信じたのである。人はいのちの木でなく、善悪の知識の木を選んだ。これは最初に人が神に背いた出来事だった。その時から人は生まれながらの罪、つまり原罪のある存在となった。このことによって人は神と断絶する。
創世記四章には人類最初の殺人が記されている。初めの人間アダムとエバの息子カインは、弟のアベルを殺す。罪が入ったことにより、人間同士の関係も壊れてしまったのである。しかし、世界に罪が入った時、神は次のような言葉を蛇の姿をしたサタンに告げる。
わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫の間に置く。
彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。
創世記 三章一五節
これは罪からの救済者があらわれることを告げる言葉だ。やがて現れる救済者についての預言は、旧約聖書の中で繰り返しなされていく。「預言」は神の言葉を預かる者の言葉である。
待ち望まれた救済者とは、イエス・キリストである。
新約聖書の内容はキリストについてである。キリストは神でありながら唯一罪のない人間として世に生まれた。そして十字架刑によって、全人類の罪を贖うために死に、三日目に甦る。
聖書によれば、この出来事によってキリストを信じる者はすべて罪から救われ永遠のいのちを得る。「贖い」という言葉はキリスト教以外であまり使われない言葉だが、買い戻しを意味する。古代イスラエルにおいて、困窮し土地を手放さざるを得なかった人間に代わって、その土地を買い戻す権利を持った親類は贖い主と呼ばれた。キリスト教のシンボルである十字架は、キリストが人間の背負うべき罪を代わりに背負い代価を支払ったことの象徴なのである。キリストとはヘブライ語のメシア「油注がれた者」のギリシャ語訳、「救世主」の意味を持つ言葉だ。
「史実と真実は異なる」のであれば、この十字架の出来事もまた、真実ではあるが、史実ではないと考えるべきなのだろうか。教理の根底となった出来事を架空のこととするならば、一体聖書のどこに信じる価値を見いだせばよいのだろうか。
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