第2話 集団世界

 私は学校が嫌いな子供だった。無意味に管理され、自由が奪われ、人が人に優劣をつける、そんな世界が嫌でしょうがなかった。すべての子供は代わりの利かない唯一無二の存在のはずだが、学校という世界はそれを押し殺す場所であるように感じられた。私の体験した管理と効率が優先された教育は、それが子供の世界のすべてであることを欲し、子供の自由と創造性を奪うものだった。見えない同調意識で、異質なものを排除しようとする。誰かを嘲笑することで居場所を保つ。少なくとも私にとっては、そのような場所に思えた。


 私が小学生の頃、クラス中から冷たい扱いを受ける生徒がいた。彼女が皆から不当な扱いを受ける理由など全くなかった。しかし彼女に対して理由なく冷ややかな態度をとることは、瞬く間に子供たちの常識になってしまった。

私は彼らを背後で動かす正体不明の力に、気味の悪いものを感じた。しかしそれ以上に衝撃的だったのは、担任の教師すらもその流れに巻き込まれていたことだった。そのクラスの担任だった教師は、たった一人の子供に対して無意味に不当な仕打ちをする集団を叱るのではなく、彼女を苦しめる集団の方に同調することを選んだ。その教師が彼女に対して非常に冷ややかに接しているのを見たとき、私の中で何かが大きく崩れた。それ以前、私は大人を無条件に信用すべき存在だと認識していた。私の中で教師は正義を体現する役割を負っていた。大人は子供とは別世界に住み、子供を恐れない、全く別の生き物だと思っていたのである。そして、世の中には悪い事と同時に正しいことが厳然と存在しており、大人は正しいことを行うのだと信じ切っていた。しかしその時初めて、世の中に正しいことなどないのかもしれないという疑いが私の中に浮上した。その出来事を通して、人が流されやすい事とそうでないことがあっても、絶対的に正しい基準などこの世には存在しないのかもしれないと感じたのである。また、世で言う正しさとは、つまりマジョリティであり、所謂強者であるのかもしれないとも。


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 私は母親がクリスチャンだったので、生まれる前から教会に通っていた。祖母もまたクリスチャンだった。幼いころ、祖母の通っていた教会で、宣教師が私を逆さまに抱き上げて教会の玄関の天井を歩かせてくれた。その宣教師は全ての人に対して「愛」以外の思いを持っていないのではないかと感じさせるような人だった。


 私は神のいない世界を知らない。小さな頃から教会で聖書の話を聞き、聖書の言葉を暗唱させられていた。そのような世界を疑うことがなかった。しかし、教会へ行くのは母が私を連れていくからであり、自分の意思で信じる決意をしたことはなかった。キリスト教の神が一体どのような神なのかも、考えたことはなかった。

キリスト教では信じた者に洗礼が授けられる。洗礼の持っている意味は、罪をきよめられ、古い自分に死に、新しい自分を生きることであり、その起源は聖書による。新約聖書はキリスト教の起源について記した書物であり、二千年前の出来事が記されている。そこには、キリスト自らが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが記録されている。洗礼の方法は教会によって異なるが、水を額に注いだり、全身を水に浸す儀式を受ける。私の所属するプロテスタント教会の場合、多くは洗礼を受ける時「証(あかし)」を読むことになる。信仰を持つに至るまでの、自分と神との関わりを語るのである。私が小学生の時、友人が洗礼を受けた。牧師の子供である彼女の証で一つだけ覚えている言葉がある。

「お父さんに、あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだのだよ、と言われました」

小学生の私にはわからなかったが、それは新約聖書のヨハネの福音書一五章一六節「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命しました」からの言葉だった。

それを見ながら、私は神を信じているものの、それをどう言葉で表現してよいのかわからないというもどかしさを感じた。なぜならキリスト教は私にとっては空気と同じくらい当たり前のものだったからだ。私はイエス・キリストをいつから信じているのかもなぜ信じているのかもわからなかった。「信じている」ということ自体がどういうことなのかもわからなかった。しかし存在を疑ったことがないのは確かだった。だがそれをどう表現してよいのか全く見当がつかず、長らく洗礼を受けようとは思わなかった。その後、母はキリスト教徒ではない父に遠慮して、あまり教会に行かなくなり、私もそれに伴って教会から離れた。


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 中学と高校はカトリックのミッションスクールに通うことになった。学校では折に触れてキリスト教に接する機会があった。


 キリスト教には東方教会と西方教会がある。東方教会は正教会と言われるもので、ギリシャやロシアなどに多い。教義的な違いなどから西方教会と分裂した。一六世紀までは、西方教会はローマ・カトリックのみだった。しかし、アウグスチノ修道会のルターなどによって宗教改革がなされ、プロテスタント教会が生まれることになった。東方教会も西方教会も、またカトリックもプロテスタントも、同じイエス・キリストを信仰している。根本的なものは共通した同一の宗教だが、教理や礼拝の仕方、教会の仕組みには異なる点が多い。カトリック教会はローマ教皇を頂点とする一枚岩の仕組みを持っている。ローマ教皇は新約聖書に記されているキリストの弟子、ペテロの後継者とされており、その下に枢機卿、大司教、司教、司祭、信徒たち、とピラミッド型の構成が形づくられている。世界中のカトリック教会はこの組織に組み込まれており、教理においては、聖書と同等に聖伝という教会に伝わる伝統が信仰対象となっている。イエス・キリストの母マリアへの崇敬もカトリック特有の教理である。カトリック教会には修道会があり、これは清貧・従順・貞潔の誓いを立てた聖職者たちの共同体である。対してプロテスタント教会はこの一枚岩の組織に抵抗し分かれた教会である。聖書と聖伝ではなく、聖書のみを信じる。

 

 このように教派によって教会に様々な違いがあるのだが、中学に入学したての一三歳の私にはこのことは全く理解できていなかった。しかし、理解していないときの方が、本質が見えていたのかもしれない。表面的な違いを意識しだすと、それに捕らわれてしまうからだ。

ただ、その頃の自分もそれまで馴染みのあったプロテスタント教会の礼拝堂と学内のカトリック教会の聖堂の雰囲気が異なることはわかった。プロテスタント教会は視覚的芸術にあまり重きを置かず、礼拝堂が簡素なつくりであることも多い。宗教改革の結果である。しかしカトリックの場合はそれと異なる。マリアや聖人に対する崇敬があることから、教会内には彼らの像が置かれている。私の通った学校の聖堂も例外ではなかった。


 

 中学時代はあまり楽しいものではなかった。孤立し、いじめの対象となることが多かったからだ。やっとの思いで大人に話したところで、「やり返せばよい」と言われるだけで、助けてもらえたことはなかった。学校以外に私の世界はなかったので、絶望的な気持ちになりながらも通い続けた。今もし同じ状況の子供に出会うことがあれば、死ぬほど辛ければ行くのを止めた方が良いと伝えたい。大人になった今は、外には広大な世界が広がっていることを知っている。しかし、私はそれを知らなかったので世界のすべてが生き地獄のような閉鎖的な場所のように感じられた。

中高一貫校だったが、高校に上がるといじめは止んだ。奇妙な感覚だった。私自身は何も変化していないのだが、いじめの対象になったり、止んだりする。私は小学校時代に目にした、孤立していた女子生徒のことを思い出した。彼女が攻撃されるべき理由などなかった。おそらくそれは集団のダイナミズムのようなものなのだ。私は何度か攻撃の対象となったが、いじめの仕組みというのはだいたい同じだった。まずターゲットを攻撃する中心的人物が一人現れる。周囲は次第にそれに同調していき一対大勢の構図が閉鎖的な集団に出来上がるのだ。私は、攻撃の中心的役割となる子供以上に、同調していく大勢の子供に脅威を感じていた。初めの内は何らかの葛藤があったのかもしれない。しかしある時点から彼らは考えることを放棄し、大きな力に支配されているように見えた。やり返せと言われても、彼らを攻撃し返すと私もその波にのまれてしまうようで、嫌だった。一度その波にのまれれば、人間として何か大切なものを失うような気がした。

この問題は、教師もどのように介入してよいのかわからないようで、いじめに加担した生徒たちに制裁が下されることはなかった。

その頃、なぜ万引きは退学処分になるのに、いじめに対する明確な規定がこの学校に無いのだろうとよく疑問に思っていた。たいていの場合、万引きのせいで人の命が犠牲になることはない。しかし、いじめの場合は犠牲となった子供の人生が大きく狂わされることが多い。一生癒えない傷を負うことも、死に至らされることもある。しかし、これを裁く正当な手段は確立されていないのだ。


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 万引きといじめは、どちらの罪が重いのだろう。

 一対大勢の構図が出来上がった時、集団に属さない一人の敵対する存在、つまり攻撃の対象となる自分自身が、対する大勢の集団の結束力を増しているように思えた。その不思議な人間の動きの中に、何か普遍的なものがあるのを私は感じた。彼らを動かす力は、人間の性質に備わった何かだった。その力は善悪の判断を鈍らせる力を持っている。

私はいじめの中心となった生徒を憎んではいたが、彼らがその背景に何かしら誰かを攻撃したくなる境遇を抱えていることもどこかで感じていた。しかし、同調した大勢の生徒たちや、全くそこに巻き込まれなかった生徒のことを思うとやるせない思いに駆られることがしばしばあった。彼らは何か血の滲むような葛藤や苦しみを味わったことがあるのだろうか。中学生の自分の中に「どうして私だけが」という思いがしばしば頭の中を駆け巡った。いじめが止んで時が経つにつれて、この思いには蓋をすることにした。


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 私は大学生となりカトリックの神学部で学ぶことになった。教会を離れたままで洗礼も受けてはいなかった。漠然と人文学系の分野に興味があったものの、積極的に選んだというよりは、母の奨めが大きかった。神学を学ぶことを決め、聖書を再び読むようになった私は、一つのことに興味を覚えた。新約聖書には「福音書」と呼ばれるキリストの伝記のような書物がある。そこに記されているキリストの弟子たちはイエスを簡単に裏切る弱弱しい存在に思えた。しかし、「使徒の働き」と呼ばれる、キリストの死後直後の初代教会についての記録に記される弟子たちの姿は、非常に力強い存在に思えた。彼らの変化は、一体何によるのだろうと不思議に思ったのである。

神学部の殆どの教員は神父だった。肩を並べて学ぶ学生の中には修道会に属する神学生やシスターもいた。しかし当時はこの特殊な環境についてとりたてて気に留めることはなかった。


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