永遠と真理

何にでもごま油をかける人

第1話 プロローグ

しかし、このことは、

「目が見たことのないもの、

耳が聞いたことのないもの、

人の心に思い浮かんだことがないものを、

神は、神を愛する者たちに備えてくださった」

と書いてある通りでした。

コリント人への手紙第一 二章九節

   


 この世界にたった一つの真理があるとしたら、きっと世界中で数千年読み継がれてきた、この本の中にあるのだろう。私は聖書についてそう考えている。人はなぜ生きているのか、正しい事とは何か、なぜ世界に苦しみや悪があるのか、幸福とはなにか、愛とはなにか。誰もがいつかは出会うそのような疑問の答えを、この本の中に見いだそうとした者は遥か昔から、数知れず存在する。そして彼らは、この本の中に尽きぬ泉を見いだした。それはいのちの泉である。私はその一人だ。


 人は様々な眼鏡をかけて世界を見ている。たとえば信じられるのは人間だけだとか、お金に苦労しないのが幸せだとか、その人が持って生まれた環境や家族、経験でできた眼鏡を通して、誰もが何かをみているのだ。私の眼鏡は、生まれたときから聖書だった。私は聖書を通して世界を見ている。しかし、もしかしてそれは、眼鏡をかけているのではなく、全ての眼鏡を外したときに見える真理なのではないかとも、思っている。


 ✝


 聖書はキリスト教の正典だが、原本は現存しない。ではなぜ世界中で聖書が出版されているのかというと、これは膨大な写本が存在していることによる。活版印刷の誕生以前、書物は人の手により写され伝えられてきた。聖書は長い歴史の中で、数限りない人の手によって写されてきた。聖書を後代に残すため、植物からできたパピルスや羊皮紙に何千年もかけて写され続けた。このようなおびただしい数の写本によって、聖書の原文が推測される。人の手によって記されているため、すべての写本が全く同じとはいかない。よって、複数の写本の本文の取捨選択により蓋然性が高いと思われる本文が採択されることになる。つまり、一言一句正確な聖書は未だに人間の手の中には存在していないのだ。しかし大部分の文言は写本同士で一致している。数千年にわたり、桁外れの人数の手によって作成された写本において、これは驚くべきことである。

 いつ頃書かれたのか、はっきりしたことは何一つわからない。キリストの誕生以降の事柄が記されているのが新約聖書、それ以前のことが書かれているのが旧約聖書である。西暦はキリストの誕生を基準とする。ゆえに新約聖書は紀元一―二世紀頃に記されたと考えられる。旧約聖書はそれ以前に記されたものだが、どこまで遡れるのかは定かではない。聖書の内容は様々で、歴史書や詩、書簡、またキリストの生涯を記した福音書などに分類される。

 誰が書いたのか、これも明確な事実はわかっていない。それぞれ記された時代の異なる六六巻の書物で構成された聖書において、著者の名が明らかにされている書もあれば、されていないものもある。聖書を記した人間は、自らの名を後世に残すことに関心が無かったのだ。彼らが栄光を帰したのは、その究極的著者とされる存在、神だった。

 この全く不思議な本は、遥か昔から今も未来も、人々を魅了してやまない。千数百もの言葉に翻訳され、年間数億部発行される、時間と空間を超えた書物である

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