アクチンとミオシンのダンス
玲子は金縛りにあっていた。
真っ暗な中、不気味な音が聞こえてくる。
そして、咀嚼音に混じって、日本語のような何かが混じっている。
——やばい
どうしようもなくやばい気がする。
『……や……く……く……わ……せ……ろ……じゃ……まな……けっ……かい……うっと……お……し……』
その瞬間に体が軽くなった。見上げると例の白衣教師がいた。
どうやら教科書か何かで肩を叩かれたらしい。
「玲子、寝ぼけてる」、小声で誰かが言ったし、周囲からクスクスと生徒の笑い声も聞こえる。
授業中に居眠りをしている生徒を教師が起した————ただ、それだけだ。
「
それだけを告げて白衣教師は教壇に戻っていった。
嫌味なほどキューティクルな長い髪が靡いている。
でも、今は嫌味を言う気分ではない。
「これで汗を拭きなよ、レイちゃん。なんかうなされてたけど、大丈夫?」
呆然としている玲子の手元にはハンカチが見えた。ついでに咲の心配顔も見えた。
「う、うん。結構あることだから……。」
……あるにはある。
あの声には覚えがある——だって、あの声は親睦会の時に聞こえた声だ。
自分に取り憑き、そして食べると言われたあの時の声。
……でもどうしてだろう。
あの時よりも怨霊の強い怒りを感じた。
怖い。震えが止まらない。心臓が痛い。
私は……どうしたら……
結局、その日の授業はほとんど頭に入らなかった。
今日はあの変態白衣のところに行く予定はない。
本当に頭のおかしい変人なのに、それでも心細く思ってしまうなんてと思う。
あぁ、まずい。自分は、本当に重症なのだ。
いつものことだ。
小さい頃からあったいつものこと。
誰にも信じてもらいないから、いつも布団の中で唯一覚えているお経を読んで、夜が過ぎるのを待つ。
そうすれば朝がきて、そしてその日は生きていられる。
————今日だって、きっと
「お父さん、お母さん。ただいまー……。ってそか。今日は結婚記念日で旅行に行くんだったっけ。伊勢かー。私も行きたかったな。」
机の上に「夕食を温めて食べるように!」とメッセージが書かれた紙が置いてあった。
「冷蔵庫の中……か。」
両親が旅行に行くのは今回に限ったことではない。壁にはたくさんのお札やお守りがある。
両親は心から玲子の話を信じている訳ではないが、毎回お守りを買ってきてくれる。
きっと伊勢参りだってそれが理由なのだろう。
「やった。ハンバーグだ。最近タンパク質に飢えてんだよね……。ってバカか私は。ささみとかの方がいいに決まってるじゃない……って!それも違うから!! なんであんな変態教師の影響を受けてんのよ。まぁ、実際? 肩こりはずいぶんマシになったし?なんなら胸だって……。はぅ……。他の筋トレの影響で本当に大きくなってるし。はぁ……。っていうか九時から十一時ってバカじゃないの? お風呂入れないじゃん。ま、一人だし、今日はシャワーでいいかな。」
いつもよりも独り言が多いのは自覚している。
やはり昼間の悪夢が影響しているのだ。
……正直言って怖い。
両親がいない中で一人、取り殺されてしまうのでないかと不安で仕方ない。
「バカね。何不安になってんのよ。子供の頃から慣れっこじゃない。ハンバーグうまうま。お味噌汁もうまうま! 贅沢な夜じゃん!筋トレなんか止めて……。うーん。ま、ちょっとだけならしよっかな。九時まではもうちょっとあるけど、要は二時間やればいいんだし……って二時間? さすがに長くない?——うーん。今日はじゃあ有酸素運動も付け加えよっかな。ようつーぶ見ながら、だらだらやろっと……」
時計を見ると時刻はきっかり八時だった。
二時間やれば十時には終われる。
それならばゆっくりお風呂にも浸かれそうだ。
「ちゃーんとウォーミングアップをして……。あー、ゲームのやつ買っとけば良かったかな。でもあれってなかなか手に入んないんだよね。クラスの子もあれでダイエット成功したみたいだし。ダイエットかぁ。うーん、咲にはこれ以上痩せてくれるなって泣きつかれているけれど。……っていうか、咲って絶対に私の胸を自分の所有物だと思ってるわよね。」
十五分ほどゆっくりとウォームアップをして、念入りにかつ無理をしない程度の柔軟を行う。
今日は長丁場なのだ。しっかりやっていて損はないだろう。
なんだかんだ、肩こりはマシになったのだ。
それに寒気がするよりは、ポカポカになった方がマシに決まっている。
だから玲子は、八時十五分になったのを確認して、最初の課題、シュラッグを始めた。
今日は長丁場なので、ダンベルは使用しない。
それでも十分に筋肉の声を……、って、聞こえないから!——でも、筋肉の存在を感じる。
……って、怖い怖い!たったこれだけであの変態の思考がうつるところだった。
「っていっても、まだ全然時間進まないわよね。リアレイズだっけ。あれもようつーぶで確認してーっと。ふんふん。なるほど。って、これも肩こり解消じゃないのよ!! どんだけ私の肩こりの心配してんの!!ま、実際に肩は凝ってるけどねぇ。へぇ、そういうやり方もあるんだぁ。えっとー……」
動画を見ては筋トレをするの繰り返しなので、時間は案外あっさり過ぎていく。
そして八時五十分を迎えた頃、ちょうど玲子が椅子に座って前屈み状態になった時、突然悪寒が走った。
パリーン!!
この感覚は知っている。よりにもよって、この体勢の時に!
今は床しか見えないけど、多分自分の部屋の窓ガラスが割れた音だ。
あの時と同じ。
あの親睦会と同じ状況。
——やっぱり私は取り憑かれていたんだ。そしてついに私は食べられる。
————怖い
どうしよう。
体を起こしたくない。
何が起きているのかを知りたくない。
『小娘の分際で、結界を張って我の食事を拒むのかぁぁぁ。ふひひひひひ。舐めた真似をぉぉぉぉ。あのまま何もせずに夢の中で食われれば痛くなかったのになぁぁぁぁ。我を舐めたことを後悔するが良い。外から食えば、そんなちゃちな結界などぉぉぉぉ!!』
夢の中では遠くからしか聞こえなかった声。
————でも今は目の前から聞こえる
っていうか結界って何? 私はただ……
————ドン!!————
今度は自分の右の床が叩きつけられたような音がした。
こんな音は家鳴りとかラップ音とかでは済まされない。
絶対に大悪霊かなんかだ。
そして、もう私はおしまいだ。
お父さん、お母さん。どうして……
涙が溢れてくる。
今までも怖い経験は何度もしてきた。
その都度、逃げるように転校を繰り返していた。
でも、さすがにそれではダメだと思ったのだ。
やっぱり……自分は……化け物の餌になる運命?
涙で見えない中、視界の片隅に革靴が映った。
おばけにも足ってあるんだ——なんて疑問は恐怖で浮かんでこない。
でも、何故かその靴から目が離せなかった。
その靴には見覚えがある。でも、どうして?
「馬鹿者。九時からと言ってあっただろう。私も教師としての仕事やそれ以外の準備もあるのだ。全く。約束も守れんとは、追試待ったなしだな。」
「せ……んせい?」
その瞬間、玲子が一瞬軽くなった。
そして、そこにはあの白衣の変態教師が立っていた。
——そもそもおかしい。ここは二階だ。もしかしてよじ登ってきたのだろうか。
でも、理由はなんだっていい。
助けに来たわけではないかもしれないが、ひとりぼっちじゃなくなったこと、それだけで嬉しい。
『お前か。小娘に要らぬ知恵を与えたのは。そのせいで我は……。我の食事が遅くなってしまったではないかぁぁぁぁ。』
「ふん。たかが学校に巣食う悪霊の分際で片腹痛いな。そもお前がこの娘を狙っていたように、私もお前を狙っていた。些か時間がかかってしまったが、ようやく任務を果たせる。」
『たわけぇぇぇぇ。人間ごときが何様のつもりだぁぁぁ。宝珠はどこだぁぁぁ。護符はどこだぁぁぁ。何も持っていない人間など、我の食い物にすぎぬわぁ。このうつけ者めがぁ。まずはお前から食ってやるぞぉぉ!!』
「笑止。うつけはどっちだ。負の者、そして光に弱きものよ。そも怨霊程度では人間には勝てん。生が放つ光を失った者の負の者の道はただ一つなのだ。」
そう言い放ち、六先生は足元まである白衣を脱ぎ捨てた。
長い黒髪が靡き、サラサラと宙を舞う。
……そして今日は、眼鏡をつけていない!!
けれど玲子はそんなところは見ていない。
——彼女の視線は一点に集中していた。
「へ……。ブーメランパンツ……? ええええええええええええ!!!!」
「
————喰らえ、サイドチェストぉぉぉぉ!!」
ボディビルダーといえば真っ先に思い浮かぶあのポーズ。
そして六のオイルが塗りたくられた裸体が光り輝く。
……いや、もしかしたら部屋の証明でテカって見えただけかもしれないが、今は光っていると思っておこう。
——それにしても、ダサッ!なんて言った?筋肉の社交ダンスって何?
決め台詞ならもっとかっこいいのあるだろうと、ちょっぴり玲子は思ったが、悪霊はその神々しい筋肉の煌めきに苦しみながら、——散り散りになって消えた。
「ふぅ。やはり雑魚だったな。本来は歯を見せて笑顔になるべきなのだが、その必要もなかったようだ。」
いや、聞いてないです。100%要らない情報です……
「あ、あの……」
「あぁ。済まなかったな。君が怨霊に取り憑かれているのは分かっていたんだ。だが、なかなか信用されないと分かった以上、君の体を守る必要があった。内側から食い破られては、手が出せないからな。君の体を奴に住みにくい環境に作り替える必要があった。——成る程、と思うだろ?」
「いえ、そうじゃなくて。白衣、着てください!」
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